第3話 禁断の液体、その名は「とりあえず生」
魔王城での生活は、思いのほか快適になりつつあった。
朝はほかほかの白米と味噌汁(魔界大豆の発酵ペーストで代用)、昼はガッツリ系の丼ものや麺類。
食事改善の効果は劇的で、骸骨のようだった魔王ゼッド様の頬には健康的な血色が戻り、城で働く兵士たちの肌艶も見違えるように良くなっていた。
だが、問題はまだ残っていた。
「……はぁ」
執務室の重厚な扉を開けると、この世の終わりのようなため息が聞こえてきた。
書類の山に埋もれるゼッド様だ。
顔色は悪くないのだが、目が死んでいる。
「どうしたんですか、魔王様。そんなに眉間に皺を寄せて」
私が夜食の差し入れ(小さなおにぎり)を持っていくと、彼は書類の山から顔を上げた。
「おお、エレノアか……。いや、なに。西の地方でオーク族とゴブリン族が『どっちの鼻が美しいか』で戦争を始めそうでな。その仲裁案を考えていたのだ」
「……くだらないですね」
「そうなのだ。実にくだらない。だが、放置すれば被害が出る。部下の愚行を処理するのも王の務め……とはわかっているのだが、さすがに精神が磨り減る……」
彼は疲労困憊といった様子で、机に置かれたぬるい水を一口飲んだ。
その背中には、中間管理職の哀愁が漂っている。
私はピンときた。
これは、栄養不足ではない。
「心のガス抜き」が足りていないのだ。
前世の記憶が蘇る。
仕事でクタクタになったサラリーマンたちが、暖簾をくぐって私の店に来たときの顔。
そして、ある「魔法の呪文」を唱えた瞬間に見せる、生き返ったような笑顔。
「魔王様。今夜は仕事、もう終わりにしませんか?」
「いや、しかしこの決裁を済ませないと……」
「ダメです。そんな死んだ目をしていても良い案なんて浮かびません。ちょっと待っていてください。私が『最高のリセットボタン』を持ってきますから」
私は強引に書類を脇に寄せると、不敵な笑みを残して厨房へと走った。
◇
厨房に入った私は、保冷庫の奥に隠しておいた「あれ」を取り出した。
樽だ。
数日前、魔界の穀倉地帯で採れる『極夜麦』と、ダンジョンの深層から湧き出る『氷河水』を使って仕込んでおいたものだ。
本来なら醸造には長い時間がかかるが、そこはファンタジー。私の魔力とスキル【厨房召喚】で取り寄せた「酵母」を使い、さらに時間短縮の魔法陣(城の魔法使いにこっそり描かせた)の上に乗せておいたことで、爆速で発酵が進んでいた。
樽の栓を少しひねると、シュッという小気味よいガス音が漏れる。
「よし、出来てる!」
黄金色の液体。そして、きめ細やかな泡。
この世界のエール(常温で飲む重たい酒)とは違う、キレと喉越しを追求した『ラガー・ビール』の完成だ。
「これに合わせるなら、やっぱりあれよね」
私は食材カゴから、鮮やかな緑色の豆を取り出した。
『オーガ豆』。
鬼の角のように太くねじれた鞘に入っているが、中身は枝豆そのものだ。魔界の土壌が豊かだからか、一粒一粒が親指ほどもあってプリプリしている。
調理はシンプル・イズ・ベスト。
鞘の両端をハサミで切り落とす(これで塩味が染みやすくなる)。
ボウルに入れて、粗塩でゴリゴリと強めに揉む。産毛を取り、色鮮やかに茹で上げるための下準備だ。
鍋にたっぷりのお湯を沸かし、塩を投入。
海水くらいの塩分濃度が理想だ。
ザザッ!
豆を一気に投入する。
ぐらぐらと沸き立つお湯の中で、緑色の豆が踊る。
茹で時間は短めに。余熱で火が通ることを計算して、少し硬いくらいで引き上げるのがコツだ。
ザルにあけ、うちわでパタパタとあおいで急冷する。
水にはさらさない。水っぽくなってしまうからだ。
「完璧」
艶やかな緑色の豆から立ち上る、青く甘い香り。
最後に追い塩をパラリと振れば、最強のおつまみ『オーガ豆の塩茹で』の完成だ。
私はお盆に豆の皿と、キンキンに冷やしておいたガラスのジョッキ(これも召喚した)を乗せ、樽を抱えて執務室へ戻った。
◇
「エレノア、その樽は……?」
執務室に戻ると、ゼッド様が怪訝な顔をした。
「ふふふ。魔王様、グラスを持ってください」
私は冷気魔法で霜がつくほど冷やしたジョッキを渡した。
そして、樽のコックをひねる。
トクトクトク……シュワァァァ……。
琥珀色の液体が勢いよく注がれ、その上にクリーミーな白い泡が盛り上がっていく。
黄金と白の比率は7対3。
黄金比だ。
「なんだこの酒は? 泡立っているぞ? それに、こんなに冷やしては味がわからなく……」
「いいから、騙されたと思って飲んでみてください。チビチビ飲んじゃダメですよ? 腰に手を当てて、喉を開いて、グビグビッといっちゃってください!」
「む、むう……」
ゼッド様は恐る恐る、重たいジョッキを口元へ運んだ。
そして、言われた通りに大きく傾ける。
冷たい液体が、唇を越える。
ゴクッ。
「……ん!?」
目が見開かれる。
だが、止まらない。
ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ、ゴクッ!
喉仏が上下に動く。
炭酸の心地よい刺激が喉を駆け抜け、冷たさが食道を通って胃袋へと染み渡っていく。
仕事で熱を持った脳味噌が、急速にクールダウンされていく感覚。
空になったジョッキを、ゼッド様はダンッ!と机に置いた。
「――プハァァァァァッ!!」
心の底からの声が出た。
それは魔王の咆哮ではなく、仕事上がりのおじさんの歓喜の声だった。
「な、なんだこれは……! 痛いほどの刺激なのに、喉越しが良すぎる! 口の中の粘つきも、疲れも、一瞬で洗い流されたぞ!」
「まだ終わりじゃありませんよ。ほら、これを」
私はすかさず『オーガ豆』を差し出した。
ゼッド様はまだ状況が飲み込めていない様子だったが、私の指使いを真似て、鞘を指で押して豆を口に飛ばし入れた。
プリッ。
弾けるような食感。
噛み締めた瞬間に広がる、豆の濃厚な甘みと、絶妙な塩加減。
「……!」
そして、口の中に塩気が残っているうちに、私はすかさず二杯目のビールを注いだ。
「どうぞ」
「お、おう!」
ゼッド様は条件反射のようにジョッキを煽る。
豆の塩気。ビールの苦味と炭酸。
塩気。ビール。塩気。ビール。
「止まらん……! これは危険だ! 豆を食うと酒が欲しくなり、酒を飲むと豆が欲しくなる! 無限の螺旋だ!」
「それが『居酒屋マジック』です」
あっという間に山盛りの豆の皮が積み上がり、樽の中身が減っていく。
ゼッド様の顔からは、先ほどまでの悲壮感が完全に消え失せていた。
頬はほんのりと赤く染まり、口元は緩んでいる。
「ふぅ……。エレノアよ。余は今まで、何をあんなに悩んでいたのだろうな」
三杯目を飲み干したところで、ゼッド様がふにゃりと笑った。
「オークとゴブリンの喧嘩? そんなもの、闘技場で決着をつけさせればいい。勝った方に褒美としてこの豆をやろう」
「名案ですね。酔った勢いで書類にハンコを押すのはやめてくださいよ?」
「ククッ。それにしても、人間界にはこんな素晴らしい文化があるのか。『とりあえず生』……なんと美しい響きだ」
彼は愛おしそうに空のジョッキを撫でた。
「なあ、エレノア。城の一角を改装して、これを毎日飲める場所を作ってはどうだ?」
「え?」
「余だけではない。ヴァルガスや兵士たちも、日々の激務に疲れている。彼らにもこの『癒やし』を与えてやりたいのだ」
魔王様、なんてホワイトな経営者。
私は思わず微笑んでしまった。
「いいですね。作りましょうか、魔王城の居酒屋」
「うむ! 店主はもちろん其方だ。余が最初の常連客となろう」
上機嫌な魔王様と、空になった枝豆の皿。
こうして、魔王城の地下にある使われていない拷問部屋(!)が、魔界初の居酒屋『エレノア』へと改装されることが決定した。
だが私はまだ知らなかった。
この店がオープンした後、酒の匂いにつられて、とんでもない客たちが訪れることになるなんて。




