第1話 生贄の令嬢と、死にかけの魔王
重厚な鉄の扉が、私の背後で鈍い音を立てて閉ざされた。
ガチャリ、と無慈悲な施錠の音が響く。
それは人間界と、魔物が蔓延る魔界とを隔てる最後の音だった。
「さらばだ、希代の悪女エレノアよ! その身をもって魔王の怒りを鎮めるがいい!」
扉の向こうから、かつての婚約者カイル王子の勝ち誇った声が聞こえる。
聖女をいじめたという冤罪。
国庫の金を横領したというでっち上げ。
それら全ての罪を私に擦り付け、彼らは厄介払いとして私をここへ――人類の敵、魔王ゼッドが住まう『永夜の城』へと捨てたのだ。
普通の令嬢なら、絶望のあまり泣き崩れるところだろう。
あるいは、扉を叩いて慈悲を乞うかもしれない。
けれど。
「……ふぅ。やっと静かになったわね」
私はドレスの裾を払うと、大きく伸びをした。
正直に言おう。
清々していた。
朝から晩までの王妃教育、領地経営の代行、そして浮気性の王子の尻拭い。
ブラック企業顔負けの激務から解放されたのだ。
ここが魔物の巣窟だろうと、あの過労死寸前の日々に比べれば天国に思える。
「さて、と。食べられるのを待つのも癪だし、とりあえずご挨拶に行きますか」
私は前世の記憶を持っている。
日本の商店街にあった、赤提灯が揺れる小さな居酒屋。
そこで看板娘として包丁を握り、酔っ払いたちを捌いていた記憶だ。
そのせいか、多少の逆境では動じない図太さが身についてしまっている。
コツ、コツ、とヒールの音を響かせ、私は薄暗い城内へと足を踏み入れた。
魔王城の中は、奇妙なほど静まり返っていた。
警備の兵士もいなければ、メイドの姿もない。
ただ、どこからか隙間風の音だけがヒュオーと聞こえてくる。
埃っぽい廊下を歩くこと数分。
最奥にある巨大な両開きの扉にたどり着いた。
この向こうに、世界を滅ぼさんとする恐怖の魔王がいるはずだ。
私は深呼吸を一つ。
覚悟を決めて、重い扉を押し開けた。
「失礼いたします。生贄として参りましたエレノア・フォン・ベルンシュタインで――」
言葉は、途中で止まった。
そこは、がらんとした広大な玉座の間だった。
窓はカーテンで閉め切られ、澱んだ空気が充満している。
そして、部屋の中央にある禍々しい玉座に、その人物はいた。
闇色の髪に、整いすぎた顔立ち。
魔族の頂点に立つにふさわしい、圧倒的な美貌の青年。
しかし。
「…………う、ぅぅ」
彼は玉座の上で、ぐったりと項垂れていた。
頬はげっそりとこけ、目の下には濃いクマが刻まれている。
肌は病的なほど白く、着ている漆黒のマントが重すぎて肩が凝りそうに見えるほどだ。
殺気?
覇気?
そんなものは微塵もない。
漂っているのは、どう見ても「過労」と「栄養失調」の気配だった。
私が呆然としていると、魔王がゆっくりと顔を上げた。
真紅の瞳が、虚ろに私を捉える。
「……人間、か」
その声は、枯れ木のように掠れていた。
「……食い物は……持っていないか……?」
「はい?」
「腹が……減りすぎて……もう、指一本動かせぬ……」
ガクッ。
魔王様は言葉の通り、玉座からずり落ちるようにして床へ崩れ落ちた。
「ちょ、魔王様!?」
私は慌てて駆け寄った。
近づいてみると、その惨状は明らかだった。
お腹が、これでもかというほど大きな音で「グゥゥゥゥ」と鳴っている。
世界を恐怖に陥れる魔王が、空腹で行き倒れ?
冗談でしょう?
「おい、誰かいないの!? 側近とかメイドとか!」
周囲を見渡すが、誰も来る気配がない。
魔王は震える手で私のドレスの裾を掴んだ。
「……誰も、おらぬ……。みな、人手不足で……遠征に……。余は……三日間……水しか……」
「三日!?」
ブラックすぎる。
魔界の労働環境はどうなっているの。
「わ、わかったわ。何か作るから! 厨房はどこ!?」
「……あち、ら……」
指差された方向へ、私は魔王の腕を肩に回して引きずっていった。
意外なほど軽い。
食べていない証拠だ。
前世、酔いつぶれた常連客を介抱した経験がこんなところで役立つとは。
◇
厨房は、悲惨な状態だった。
広さはあるのだが、調理器具は錆びつき、あちこちに蜘蛛の巣が張っている。
かまどには冷え切った灰が積もったまま。
これではお湯ひとつ沸かせない。
「食べるもの……何か……」
魔王ゼッド様(名前は後で聞いた)は、厨房の隅にある椅子に力なく座り込んでいる。
私は腕まくりをして、厨房の奥にある巨大な食糧庫を漁った。
「食材は……これだけ?」
棚にあったのは、岩のように硬い干し肉と、得体の知れない穀物だけだった。
『奈落牛の干し肉』
『月光米』
鑑定スキルで確認すると、そう出た。
奈落牛は魔界に生息する獰猛な牛で、その肉は滋養強壮に良いが、加工しないとタイヤのように硬いらしい。
月光米は、月の魔力を吸って育つ穀物で、ほんのりと青白く光っている。
「上等じゃない。これなら何とかなるわ」
私はふっと息を吐き、意識を集中させた。
私には、王宮の誰も評価しなかったユニークスキルがある。
「――【厨房召喚】」
私の魔力に呼応して、目の前の空間が歪む。
次の瞬間、錆びついた調理台の上に、見慣れたステンレスの輝きが現れた。
カセットコンロ(魔石式に改造済み)、雪平鍋、お玉、そして私が愛用していた和包丁。
さらに、醤油や出汁パックといった調味料セットも一式揃って出現する。
前世の居酒屋『赤提灯』の厨房の一部を、魔力を代償に具現化する私の切り札だ。
「まずは、この岩みたいな干し肉ね」
私は『奈落牛の干し肉』をまな板に置いた。
カチコチだ。このまま食べたら魔王様の歯が砕ける。
私は【厨房召喚】で出した「おろし金」を手に取った。
硬いなら、削ればいい。
ガリッ、ガリッ、ガリッ。
乾燥して旨味が凝縮された干し肉が、粉雪のようなフレーク状になっていく。
燻製のような香ばしい匂いが漂い始めた。
「……いい、匂いだ……」
背後で魔王様がピクリと反応するのがわかった。
次は『月光米』だ。
青白く光るこの米を研ぎ、雪平鍋に入れる。
水は厨房の蛇口から出る魔界の地下水を使った。
ひんやりとして雑味がない、素晴らしい軟水だ。
カセットコンロのつまみを捻る。
カチッ、ボッ。
青い炎が鍋底を舐める。
「お粥にするわよ。三日ぶりの胃袋に固形物は毒だからね」
鍋に水を多めに入れ、月光米を煮込む。
沸騰したら弱火にし、先ほど削った『奈落牛のパウダー』を投入した。
さらに、ここへ秘密兵器。
亜空間収納から取り出したるは、『黄金鰹の出汁パック』。
これは以前、辺境の港町で手に入れた幻の魚を加工しておいたものだ。
鍋の中で、魔界の牛と、人間界の魚の旨味が出会う。
湯気とともに立ち上る、芳醇で優しい香り。
それは、あらゆる生物の本能に訴えかける「食欲」の香りだった。
「……なんだ、この香りは。……魔法か? 魅了の魔法なのか?」
魔王様がふらふらと立ち上がり、鍋の方へ近づいてくる。
その目は釘付けだ。
「座ってて。仕上げをするから」
月光米が水分を吸い、とろりとした糊状になってきた。
青白い光が薄れ、艶やかな乳白色へと変わる。
ここで、食糧庫の隅で見つけた『炎鶏の卵』を割る。
殻を割ると、燃えるように鮮やかなオレンジ色の黄身がつるりと落ちた。
軽く溶きほぐし、鍋の中に「の」の字を描くように流し入れる。
ふわぁっ。
オレンジ色の卵が、お粥の熱で半熟の花を咲かせる。
最後に、風味付けの醤油を数滴。
パラパラと刻みネギ(これは薬草園のポーション草で代用した)を散らして完成だ。
『奈落牛と炎鶏卵の黄金雑炊』
土鍋に移し替え、レンゲを添えて魔王様の前に置く。
「はい、お待たせしました。熱いから気をつけて」
魔王ゼッド様は、震える手でレンゲを握った。
目の前の黄金色に輝く雑炊を、信じられないものを見るような目で見つめている。
「……これが、飯……?」
「いいから、一口どうぞ」
彼は恐る恐る、レンゲですくった雑炊を口へと運んだ。
ふぅ、ふぅ。
微かな息で冷ましてから、パクリ。
瞬間。
魔王の動きが止まった。
口いっぱいに広がるのは、月光米の優しい甘み。
それを包み込む黄金鰹の上品な出汁。
そして、噛みしめるたびに染み出してくる奈落牛の力強い肉の旨味。
半熟卵がすべてをまろやかにまとめ上げ、弱った胃袋へと滑り落ちていく。
じわぁぁぁ……。
空っぽだった胃に、熱い塊が落ちる感覚。
身体の芯から温かい魔力が湧き上がってくるようだ。
「……っ」
魔王の瞳から、ぽろりと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あ……れ? 余は……何を……」
「美味しくない?」
「違う! 逆だ……!」
彼は叫ぶように言った。
そして、猛烈な勢いでレンゲを動かし始めた。
ハフッ、ハフッ、ズズッ。
行儀作法など忘れたかのように、一心不乱にかき込む。
「うまい……うまいぞ……! 身体が、熱い。指先に力が戻ってくる……! なんだこれは、こんな優しい味は、生まれて初めてだ……!」
あっという間に土鍋は空になった。
彼は名残惜しそうに鍋の底をレンゲで掬うと、涙で潤んだ瞳を私に向けた。
その顔には、先ほどの死相はもうない。
頬には微かに赤みが差し、瞳には理性の光が戻っている。
本来の美貌が、湯気越しに輝いて見えた。
「……人間よ。いや、エレノアと言ったか」
彼は私の手を取り、まるで宝石を扱うように握りしめた。
「頼む。おかわりをくれ」
その真剣な眼差しに、私は思わず吹き出してしまった。
「ふふっ。材料はあるから、いくらでも作るわよ。これから長い付き合いになりそうだしね」
「長い付き合い……?」
「ええ。私、国を追い出されちゃって帰るところがないの。だから、今日からここで働かせてもらうわよ」
私はニカッと笑って宣言した。
「魔王城の食糧事情、私が根底から叩き直してあげる!」
こうして。
最強最悪の魔王への生贄になるはずだった私は、
なぜか魔王様の専属料理人(兼、胃袋の管理者)として、第二の人生をスタートさせることになったのだった。




