後編 竜の王冠を抱きし者
ジョカ卿は瓦礫の中から這い上がった。
吐血し、咳き込みながらも、その眼光はなお燃えていた。
「……お前は、竜の王冠の継承者ではなかったのか!?」
皇帝サジャーは冷笑を浮かべ、呪いの剣を肩に担ぐ。
「竜王ジャダのことか? 奴なら、とうの昔に私が打ち倒した。だがな――刃を振り下ろす寸前、私は思ったのだ。
――この男を殺して、私に何の得がある? 歴史書の片隅に記される文字列か、農民が子供に聞かせる寝物語の一節か。私の途方もない犠牲と苦痛の代償がそれで良いのかと……」
皇帝は背を伸ばし、飢えた獅子めいた目つきでジョカの周りをゆっくり巡った。
「そのとき悟ったのだ。奴を生かしておけば、すべてが手に入ると。力も、名声も、富も……そして不死も。だから私はジャダを殺さず、鎖で繋ぎ、幽閉し、鍵を虚無へと投げ捨てたのだ」
痛みと怒りに喘ぐ騎士は、皇帝を睨み返す。
「……巫女たちを殺したのもお前だな。だから我らは真実に辿り着けなかった」
「その通りだ」サジャーは嗤った。
「事実を知るジャダの血族も、我が一族も――残らず皆殺しにした。貴様のような愚か者どもが何も知らず私に挑み、無駄死にする様を眺めるためにな」
皇帝は窓辺へ歩み寄り、下の宮殿庭を見下ろす。戦いはまだ続いていた。
彼は深く息を吸い込み――鉄と血と臓物の匂いを、清々しい朝風のように胸に満たした。
「これこそが、皇帝であることの至上の悦びよ。哀れな農民どもを素手で引き裂き、その心を折り、眼の光が消えていく様を眺める。最後に――奴ら自身の剣で止めを刺さしてやるのだ!」
ふと、騎士の手からこぼれ落ちた剣が目に入り、それを拾い上げた。
「さて、剣と言えば……これはアスカロンか!かつて我がものだった聖剣。竜王を討つ運命の剣!」
一瞬、サジャーの瞳に懐かしさが宿る。
「破壊できぬゆえに海へ投げ捨てたというのに……貴様は海底に潜り、わざわざ拾い戻してきたのか。だが、倒す相手を間違えたな!」
雷鳴のような笑いが広間を震わせる。
「実に滑稽な奴よ。いっそ手足を斬り落とし、道化として飼ってやろうか?」
「私の剣を――返せ!」ジョカが手を伸ばして怒号する。
「無礼者め。だが許そう。楽しませてくれた褒美だ。受け取るがよい!」
皇帝は肩を竦め、聖剣を騎士の腹に突き立てた。破壊不能の刃で肉を抉り、存分に掻き回す。
――広間に悲鳴が木霊する。
だがそれは銀の騎士のものではなかった。叫んでいるのはサジャー自身だ。
「ぐっ……な、何をした!? 貴様、何をしたあああああ!」
皇帝の逞しい身体が急速に縮み、痩せ細っていく。慌てて王冠を探すが――指先に触れたのは、燃え尽きた灰のように抜け落ちる髪の毛だけだった。
「儂は何もしておらぬ」――低く、ねじれた声が響く。
それはもはや勇ましい若騎士の声ではない。冷酷な老いた王者の声だった。
「それは……自業自得というものだ」
騎士の兜が床に投げ捨てられる。下から現れた顔は、数多の傷に覆われ醜く変わっていたが、暗い威厳を宿していた。
皇帝サジャーの瞳が見開かれる。恐怖と驚愕が彼の胸を刺す。
「……ジャダ――!」
「竜王ジャダ様と呼べ、愚か者め!」
その頭上には、赤く脈打つ鉄の棘の冠が輝いていた。
「サジャー・イラドノリよ。お前は最低の支配者だったが、悪党としては三流以下だ。お前の陳腐な独白に笑いを堪えるのがどれほど辛かったか! その剣で死ぬ前に、窒息死するかと思ったぞ!」
「な、なぜだ……! あの脱出不能の牢獄から……どうやって脱け出した!」サジャーは震え声で問う。
ジャダは口元を吊り上げる。
「簡単なことだ。お前は看守たちに、誰が囚われているかを知らせなかった。牢を訪れる者がいないまま、看守どもは世代を重ねるごとに怠惰になり、愚かになった。あとは時を待つだけ――私には時間がいくらでもあったのだ」
「冠を返せ! 私の王冠を返せえええ!」サジャーは震える手を伸ばして仇敵に飛びかかるが――その身体は塵の中に崩れ落ちる。百年分の老いが、黒い稲妻のように血脈を走ったのだ。
「王冠の行く末を決めるのは、儂ではない……」ジャダは最後の力を振り絞って立ち上がり、萎み行く皇帝の手の届かない場所に移動した。
瓦礫にもたれ、弱々しい声で言った。
「巫女たちを殺したのは、失策だったな。いくら鬱陶しくとも、儂はあの女どもには手を出さなかった。伝令を殺せば、必ず何かを聞き逃すからだ」
ジャダがまた咳き込む。大理石の床に濃い血が飛び散るが、彼は構わない。傷も痛みももはや意味をなさない。
「予言には続きがあったのだ。お前は聞きそびれていた続きが」
老竜の目は勝利で輝いていた。
「巫女たちは、儂に告げた――神獣の王冠は、その務めを果たすか、あるいは担い手が死を迎えたとき、新たに真にふさわしい者のもとへ受け継がれるのだ」
彼は震える手で聖剣を胸から引き抜き、獣のような咆哮とともに投げ放った。
サジャーの目は、アスカロンの軌跡を追い――その剣を受け止める細くしなやかな、しかし揺るぎなく強靭な手を見た。
そして彼はようやく気づく。
あの少女だ。
銀の騎士の影のように付き従ってきた、ただの小娘。
皇帝たる彼が一蹴して踏み潰すべき、つまらぬ農民の子。
だが今――崩れ落ちる壁の前に立つその姿は、まるで百年の闇を裂いて昇る、新たな太陽のごとく輝いていた。
赤毛は炎のたてがみのように舞い、その頭上には、ついに穢れを祓われた《獅子の王冠》が輝きを取り戻していた。
「行け、小娘よ!!」
竜王は最期の息を振り絞って吠える。
「儂らの復讐を遂げるときが来たぞ!」
「はい、お師さま!」リリアナは応えた。
少女は駆ける!
渾身の力で聖剣を振り下ろす!
空気が裂け、大地が砕け、光が奔流のように崩れた玉座の間を呑み込んだ。
サジャーはよろめいた――だが、生きていた。
激痛に喘ぎ、絶望に顔を歪め、己の頭を掻きむしった瞬間、彼は凍りついた。
そこにあったのだ。
彼の頭上に――血のように赤く輝く、棘の輪。
竜の王冠が!
振り返ったサジャーは、ジャダの頭に冠がないことを見て悟った。
――担い手が死にゆく時、王冠は新たに「ふさわしい者」に継がれる。
「……いやだ。いやだ!いやだァァァ!」
皇帝は空を掴み、冠を引き裂こうとし、皮膚を爪で裂いた。
だが離れない。
王冠は彼を離そうとしなかった!
崩れ落ちる壁にもたれ、息絶え絶えのジャダは微笑んでいた。
長く執着し続けた力に、撃ち滅びていく宿敵の姿を見ながら
その苦痛の向こうに、暗闇に残る、消えかけた火の粉のように、
古びた思い出がよみがえる。
――始まりは、一人の奴隷の少女だった。
地底の牢獄に鎖で繋がれた竜王を見つけたのは、他ならぬ彼女だった。
「脱獄は容易だった」という言葉だけは、真っ赤な嘘だった。
その少女は、殺人的な罠と骨喰い虫に満ちた地底から、老いた男を引き上げた。
その後には待ち構える、苛酷な療養、絶望的な旅路に連れ添った。
魔工の舟で影の海を越え、島のような怪物をかわし、聖剣を奪い返す。
鼻水を垂らしながら、幾多の戦場を駆け、地獄のような訓練に泣き喚き――それでも。
彼女は逃げなかった。
決して諦めなかった。
今と同じように。
サジャーはひざまずき、哀れなほどの必死さで命乞いしている。
「助けてくれ!私を生かせば全てが手に入るぞ!力も、財宝も……永遠の美貌すらも!」
「お前は母さんを殺した!」リリアナは叫びながら、剣を叩き込む。
「兄さんを殺した!あたしの友達を殺した!お師さまも殺した!」
怒りが鋼の刃に宿り、刃は炎となる!
「お前から欲しいのは――死だけだ!!」
彼女は止まらなかった。
決して止まらない。
誰にも止められない。
ジャダは目を細める。
生涯ただ一人の弟子の、勇姿を眼に焼き付けようとして。
……ああ、小娘め。
また泣いておるのか。
何度言えばわかる?
英雄は涙を流さぬものだ。
悪党は決して泣かぬものだと。
――だが、もしかすると。
儂は間違っていたのかもしれん。
竜王の視界は闇に閉ざされる。
終わりが訪れた。
だが、思っていたほど悪くはない。
なぜなら、彼は勝ったのだ。
彼女は決して知らぬだろう。
独りで残して行くことを、謝りたかったことを。
少女の後の人生に幸あれ、と祈っていたことを。
王者ジャダは生涯、悪党として生き、悪党として死ぬ。
だから最後まで笑ってやる。
満面の笑顔を浮かべながら、
ジャダは地獄の炎へと歩み入った。
誇り高く。
輝かしく。
真なる竜王として。
読んでくださって、ありがとうございます!
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