第七話 竜都の大災
夜明け前。
ターナの空は血が滲んだような暗紅に染まっていた。
冷たい風が山稜を越え、湿気を帯びた霧を街上に這わせた。遠く、地鳴りと共に竜の咆哮が低く響き、まるで大地そのものが息をしているかのようだった。
ターナ──サンサーラ国とシルヴァリス王国を繋ぐ唯一の中継都市。
“竜の都”と呼ばれるその地は、北を断崖と海に、西を天竜の巣を抱く岩山群に、東を地竜の棲む大森林に囲まれ、南は霧散する滝が深淵へと落とす。四方すべてが天然の要塞であり、世界の背骨とも言える要衝であった。
湖に湛えられた清水のほとりには、人と竜が共に営む暮らし。
地竜の繁殖、調教、輸送用天竜の管理。さらには“天竜使い”の育成。
この街に暮らす二十万の民は、その営みの中で今日も息づいている。だが、この朝は違った。
⸻
要塞の頂。円形の石造りの城塞に一人の男が立つ。
竜騎士エンドリヒ──初代“天竜使い”の末裔にして、武装天竜『ハイランダー』部隊の長。
背には幾度もの戦いを刻んだ古い傷があり、黒鱗を持つ天竜が静かに鼻息を吐いた。
冷気が霧を震わせ、金属を焦がすような硝煙の匂いが辺りを包む。
その時、一騎のハイランダーが急降下し、着地の衝撃で地が震える。
砂塵が舞い、竜騎士が駆け寄った。
「エンドリヒ様!偵察から帰還しました。敵軍、地竜兵千、重歩兵千、弓兵二千、魔術師数百。総勢五千。夜明けとともに東の森林を抜け、侵攻予定です!」
静寂が落ちる。
竜の羽音だけが夜気を切り裂く。
緊張が重く街を覆い、遠く雷鳴のような低音が響いた。
エンドリヒは石壁に手を置き、ゆっくりと頷く。
「兵は一般二千、弓兵二千、魔術師五百。そして空の守護は五騎。数は互角だ。しかし──ライレンを一瞬で落とした軍勢だ。侮るな。」
彼の瞳が霧の向こうの闇を射抜く。
「援軍は要請した。だが間に合わぬ。ならば──ここで止めるしかない。」
剣を抜く。鞘の金属音が静寂を裂く。
「ターナは竜の都――ここを落とされれば、空も地も敵に奪われる!」
竜たちが翼を広げ、霧の中で眼が青白く光る。
エンドリヒの声が雷鳴の如く響き渡った。
「全軍、戦闘態勢に入れ!」
弓兵が駆け出し、魔術師が詠唱を始め、数十の天竜が銀光を纏い舞い上がる。
街全体が巨大な竜のように息づき始めた。
⸻
東の空。雷山ライレンの向こうから夜明けの光が差し込む。
冷たい霧の裂け目から、薄紅の光が地を照らす頃、大地が震え、鉄錆のような匂いが漂った。
「……来たか」
エンドリヒは静かに呟き、ランス《騎兵用突撃槍》を高く掲げた。
「皆、覚悟は良いか!我ら暁の環の要衝ターナを守るのが使命!命を賭して戦え!」
グロリアスが咆哮し、翼を震わせて突き進む。
「弓兵!魔術師!東の草原地帯、一斉に放て!」
雷を纏った三千の矢が夜気を裂き、敵の炎がそれを焼き払う。
戦場は轟音と硝煙、金属の匂いに満ちる。
「まだだ、矢を切らすな!」
雷鳴が轟き、夜明け前の空が白く光る。
その瞬間、炎が再び上がる。
敵軍は衰えず、黒梟の地竜騎兵が土煙の中を突き破る。
ドゥンッ──。
城門が砕け散り、地竜の鉤爪が都市内部へと土煙を流し込む。
⸻
門前に集うハイランダー達。
尾で矢を払い、突進する地竜騎兵を薙ぎ払う。
「この門で敵を討つ!」
エンドリヒが叫ぶ。
しかし、その瞬間。
一騎のハイランダーが頭部を切断され、時が止まったように戦場が凍る。
火山のように血が噴き出す。
地面に落ちた竜頭の影。
そこに立つのは長身の武将、長い黒髭、偃月刀を抱えた男──コウブ。
「我はコウブ。黒梟軍、サンサーラ殲滅の剣を担う者なり。
地獄を覗く前に、名を聞こう。竜都の守り手よ。」
視線は冷たく鋭く、エンドリヒを射抜く。
臆したことがないハイランダー『グロリアス』が目の前の男一人に萎縮し、警戒の鼻息を荒げている。
エンドリヒの瞳に再び光が宿る。
「私はターナの頭領、エンドリヒ。黒梟の野盗ども、暁の環の要衝ターナは絶対に渡さん!」
グロリアスの手綱を持つ左手と、槍を持つ右手には長としての矜持が漲っていた。
「ほう……良い眼をしておるな。」
コウブは、静かに偃月刀を構えた。
その刃が僅かに動くたび、空気が切り裂かれ、圧が走る。
地竜の全身を覆う黒鱗が、まるで生き物のように脈動した。
エンドリヒはグロリアスの首筋に手を添える。
竜の鼓動と己の鼓動を一つに合わせ、息を整えた。
「行くぞ――グロリアス!」
天竜の咆哮が雷鳴のように空を裂いた。
竜の翼が大気を震わせ、地を蹴って一気に跳び上がる。
槍を構えたエンドリヒの姿は、まさしく天を貫く閃光のごとし。
「竜が空を制すというならば――地竜が地を断つ!」
コウブの声とともに、地竜が低く咆哮し、地を割った。
その巨体が跳ね上がり、尾が石壁を砕く。
二つの巨竜が、空と地の境で激突した。
衝撃波が街を揺るがし、周囲の兵士たちは立っていられずに吹き飛ぶ。
槍と刀が激しくぶつかり、火花が空中に散った。
エンドリヒの槍は雷光を閃かせ、コウブの刀は闇の瘴気を噴き上げた。
一撃一撃が、天と地の怒りを具現したかのようだった。
「ターナは…この地は…人と竜が築いた聖域だ!」
エンドリヒが叫ぶ。
「貴様らに穢されてたまるかああッ!」
グロリアスが翼を翻し、コウブの背後に回り込む。
高く跳躍し、上空から突き下ろすその槍が、まさに雷そのものとなった瞬間――
「遅い。」
コウブの口元が僅かに動いた。
その偃月刀が横一文字に閃き、グロリアスの右の翼を断ち切った。
竜の絶叫が夜明けの空を裂く。
切断面から闇色の瘴気と血が同時に吹き上がり、エンドリヒは宙に投げ出された。
「グロリアス!!!」
地に叩きつけられた瞬間、世界が揺れる。
耳鳴りの中で、エンドリヒは必死に身を起こした。
空には、翼を失いながらも再び立ち上がろうとするグロリアスの姿があった。
闇色の瘴気はおそらく神経毒。グロリアスの体は自由を奪われ小さく震えている。
しかし、竜の瞳は主を護らんとする最後の誇りに燃えている。
コウブはわずかに瞼を伏せ、血に濡れた地を見た。
「誇りか……美しい。だが、誇りでは戦は勝てぬ。」
偃月刀が再び掲げられる。
黒い炎がその刃に宿り、竜の血を吸うように赤く脈動した。
エンドリヒは立ち上がる。
「まだだ……ここで、終わらせはせん!」
槍で体を支え、残る力を振り絞る。
兵達の戦いの地鳴りが止まらない。
炎が壁を舐め、崩れ落ちた屋根が悲鳴のような音を立てる。
竜舎に繋がれた地竜たちが怯え、鎖を引きちぎって飛び出していく。
空には無数の黒煙が立ち昇り、まるで竜の魂が昇天していくようだった。
「ハイランダー!街の被害はやむを得ん!私に構わずコウブを狙え!」
血に濡れた顔で、エンドリヒは怒鳴る。
声が掠れていても、三騎のハイランダーが空に舞った。
エンドリヒの背にある“竜の紋章旗”は、裂かれ、炎に焦げてなお風に翻っている。
「天竜舎が崩落寸前です!」
「南門の避難、まだ完了していません!」
街には次々と報告が飛び交っている。
エンドリヒの視線は、なおも前線──炎の向こうに佇む、ひとりの男に釘付けだった。
コウブ。黒梟の将。
その姿は炎を背景に、まるで冥府から現れた死神のようだった。
偃月刀を肩に担ぎ、崩壊するターナを静かに見下ろしている。
「……まだ、終わっていないぞ。」
エンドリヒはふらつきながらも立ち上がり、コウブに一歩一歩、歩み寄る。
その腹部には深く抉られた傷。鎧の隙間から血が滲み、足元に赤い水溜りを作っていた。
グロリアスも片翼を引きずりながら寄り添い、主の肩に顔を寄せる。
「すまぬな……もう、飛べぬか。」
エンドリヒが竜の額に手を置くと、グロリアスの瞳が優しく細められた。
人と竜が、言葉なく想いを通わせた瞬間だった。
グロリアスの息が弱まり、空気が静まった。
「……だが、まだやることがある。」
震える手を掲げ、エンドリヒは咆哮した。
「コウブよ!我らターナの民はただでは死なんぞ!」
その叫びが響いた瞬間、空に舞った三騎のハイランダーの翼から六つの『竜硝石』が放たれる。
バシュッ。
コウブへと一直線に白光が走る。
刹那、大地を抉る轟音とともに上空へ巨大な光柱が立ち昇る。
ターナの中央塔が崩れ落ち、それはまるで、滅びゆく竜都の祈りのようだった。
爆炎と爆風は、コウブを中心とした数キロの範囲を消し飛ばす。
空に舞うハイランダーの騎士は、煙の隙間にグロリアスの焼け焦げた亡骸を見て涙した。
「エンドリヒ様…」
グロリアスとエンドリヒの亡骸は、抱き合うように折り重なっていた。
──その時。
ズバッ
突如、一騎のハイランダーが腹から血を吹き出し激しく鳴いた。
空を赤く染めながら、竜の巨体が地に堕ちる。
ハイランダーを貫いたのはエンドリヒの槍。
地に堕ち苦しむ竜の首を偃月刀が無慈悲に切り落とす。腰が立たず、地を這い逃げる竜騎士もその首を切り落とされる。
ハイランダーの竜騎士二人は、震えが止まらない。恐怖によりその場から逃げることすら出来なかった。
コウブは堕ちてきた竜騎士の槍を拾い上げ、天に投げ飛ばす。
スバッ。
また一騎のハイランダーが地に落ちる。
「あと一匹か? 忌々しい天竜め。我が地竜の腹を裂き隠れねば流石に危なかったぞ…」
コウブの体は地竜の血で真っ赤に染まっている。
その姿はまさに悪魔そのものだ。
堕ちた天竜にとどめを刺し、落下死した竜騎士の槍をまた拾い上げる。
「最後だ。…この私の地竜を奪った罪は重いぞ…死ねっ!」
コウブは最後のハイランダーに槍を投げた。
ガキィィン!
黒銀の影が槍を弾く。
「何だ!」
コウブは血に染まった顔で空に叫んだ。
黒梟軍の兵たちも足を止め、上空の影を見上げていた。
コウブは低く呟いた。
「……お前たちがガンロから来た転生者どもか?」
遥か上空──天竜の紅玉の瞳がコウブを見下ろしていた。
俺は手綱を握る拳に力を込めた。
「星牙、まだ飛べるか?」
銀と漆黒の鱗を持つ天竜《星牙》が、血煙の空を貫いて吠える。
ガアアア!
「まるで地獄のようだ……だが、まだ間に合う。そのために俺たちは来たんだ。」
俺は覚悟が出来ている。
(どんな大きな壁であろうと、乗り越えなければならないんだ。リアナに再び会うために…)
東の空が完全に白み、朝陽が山の端を照らす。
だが、その光は希望なのか…。
ターナの空を覆う煙と炎が、陽を呑み込み、紅蓮の牢獄と化していった。
──そして、竜都の大災は始まった。




