第八話 イズファル
イズファルが二十歳の時――
母は、静かにその生を終えた。
病は長く、だが最期はあまりにも呆気なかった。
朝の光が差し込む部屋で、母は眠るように息を止めた。
その瞬間だった。
青い光がイズファルの体を包み、
部屋全体が、淡い輝きに染まる。
瞳が蒼く光を帯びる。
「……これが……母上の力……
“忍びの力”」
青白い光が胸から溢れ、
渦を描くように広がり、
やがて、再び体内へと静かに戻っていく。
イズファルは、思わず息を呑んだ。
「……宿った、か……」
――理解した。
これは、悲しみではない。
“継承”だ。
忍びの力。
それは、かつて“日本”と呼ばれる異世界の国、
さらにその中でも“江戸”という時代から転生してきた男が持っていた力。
闇に溶け、
気配を断ち、
世界の裏側を歩むための力。
その男の血が、時を越え、
授力として母に宿り、
そして今――イズファルに覚醒した。
母の名は、朧。
シルヴァリスとサンサーラを往来し、
誰にも知られず、誰にも疑われず、
数多の情報を暁の環へと持ち帰った、比類なき諜報兵だった。
ーーーー
葬儀を終えた夜。
イズファルは、父の前に立っていた。
炎の属性を宿す、拠点ジュラの頭領。
その背中は、いつも揺るがなかった。
「イズファル」
低く、重い声。
「朧が逝き、
“忍びの力”はお前のものとなった」
「……はい」
「その力は、暁の環にとって不可欠だ。
隠れ、探り、真実を掴むための――“影”の力だ」
イズファルは膝を折り、深く頭を下げた。
「心得ております、父上」
沈黙。
炎の揺らめきが、石壁に影を落とす。
「イズファル」
父は、言葉を継いだ。
「お前は、旅に出ろ」
顔を上げる。
「母のように――
優れた諜報兵となるためだ」
「……旅、ですか」
「世界を知れ。
国を見よ。
人を見よ」
「嘘と真実の区別を、
理屈ではなく――肌で覚えろ」
父は一歩、近づいた。
「猶予は五年。
二十五になったら、必ずジュラへ戻れ」
「援助は無い。
金も、仲間も、名も使うな」
「全てが修行だ。
自らの力だけで、生き抜け」
それは命令だった。
だが、拒むという選択肢は、最初から存在しなかった。
厳しい言葉だった。
だが、そこに迷いは無い。
イズファルは拳を握り締め、静かに答えた。
「……父上」
一瞬、言葉を探し――
「任せてください」
真っ直ぐに、視線を上げる。
「必ず、母上……
朧を超える力を身につけて、戻って参ります」
父は、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして――
小さく、確かに、頷いた。
母から受け継いだ“忍びの力”。
父から与えられた、過酷な命。
その二つを胸に刻み、
イズファルは、暁の環の拠点ジュラを後にした。
世界を知るために。
影として生きるために。
――今から、四十年前の話である。
イズファルは、シルヴァリス王国に潜入し、
名も、素性も、姿すらも偽ったまま、
エルフとして一年の時を過ごした。
当時のシルヴァリスは、
女王エルフィリア率いる“女王派”の力がまだ弱く、
長老会派の唱えるエルフ至上主義が、
国の思想そのものだった。
人間は劣等種。
近づけば警戒され、
関われば排斥される。
それが――“常識”の国。
(……想像以上だな)
石畳の街を歩きながら、
イズファルは内心で呟く。
(この空気……
いずれ必ず、刃になる)
酒場の片隅。
杯を傾けるふりをしながら、
噂話に耳を澄まし、思考を巡らせる。
「やはり、この国は……
サンサーラの敵となるか……」
暁の環。
“御方”が語った予言。
――“世界の混沌”。
「シルヴァリスとサンサーラ……
エルフと人間……」
「人間至上を謳う、黒梟の動きも見ておかねば……」
(やはり、混沌は――
この二つの種が引き起こすのか)
「……その引き金は、どこだ」
「我らの探す“三つの鍵”は、
いったい、どこに現れる……?」
答えは、まだ見えなかった。
だが、ある日――
一つの国名が、耳に引っかかった。
「……グラムディル?」
鉱山都市国家。
“世界を隔てる壁”に閉ざされた国。
人も、エルフも、容易には辿り着けない場所。
(謎に満ちた国……)
「この国は、この世界に……
どう関わる……」
イズファルは、静かに息を吐いた。
「……調べる必要がありそうだな」
こうして――
イズファルは、グラムディルを目指す初めての人間となる。
影として。
観測者として。
そして、
世界の分岐点を見届ける者として。




