再会
(暑……)
あまりの暑さに飛燕は目を覚ました。ゆっくりと目を開けると、見慣れぬ岩肌が目に入った。
「!?」
はっとして跳び起きるが、体中が痛い。
「そ…うか、海に落ちたんだった。」
ーー何故海に落ちたのにここにいるのだろうか…
頭は体の鈍い痛みに支配されていて、まだぼんやりとしている。ただどうやら生きていることだけが理解できた。
「どうして……?ーーそうだっ。」
突然ぼんやりとしていた頭にフラッシュバックのように、あの時の光景が蘇ってきた。
「あいつ!。」
飛燕は周囲を見回した。そして彼女の目は、一点で釘付けになった。
逆光の中に人影が一つ、たたずんでいた。彼女は息を呑んだ。
「お…まえ…」
あまりの驚きに声がかすれて言葉にならない。そんな彼女をよそに、人影はゆっくりと彼女に歩み寄った。今や目の前にいる人影に向かって、ようやく喉の奥から絞り出すように声を出した。
「ーー司竜。」
まさしく安都水司竜の姿だった。飛燕よりも幾分小柄な体つき。漆黒の髪と瞳。どこをどう見ても、司竜にしか見えなかった。
「そなたは死んだはずではーー。息も止まっておったし、心の臓も止まっておった。そうだ。私も鷹矢も確認したぞ。」
息せききってまくし立てる彼女に、司竜は困ったように笑みを返した。
「ではここにいるのは幽霊と?」
「いや…。本当にそなたなのだな。」
「己の目を疑うとは、飛燕殿らしくないな。」
自分の目を疑う訳ではないが、何分にも俄かには信じがたいことだった。しかもこの静かに笑っている姿に、彼女はしきりに何か引っ掛かるものを感じていた。しかし事情は何であれ、とにかく司竜は生きていたらしい。
「すまぬな。てっきり死んだものと思っていたのでな。生きていたのであったならこしたことはない。鷹矢もさぞかし喜んだであろう。
ーー奴は一緒ではないのか?何故ここにおるのだ?」
しかし司竜は答えはせず、ただ相変わらず困ったように笑っているだけだった。確かに彼女に引っ掛かりを感じさせる程、彼らしくない仕草だった。
二人がいたのはエドニ海に点在する小島の一つだった。『産みの島』と呼ばれ、海人達が子を産む時に上がる島だ。
穏やかな波が打ち寄せ、太陽は暑く照りつけている。浜では産後の忌み月が終わった女達が、お喋りに花を咲かせていた。褐色の肌に、銀の髪。眼は紅花のように赤く、首筋には確かにエラがあった。
女達は二人の姿を見付けると、人懐こく差し招いて、外国の話を聞きたがった。のんびりしている暇はないのだが、どうもここの陽光を浴びていると気が緩んでしまう。まず二人をこの島に救い上げたのは、他ならぬ彼らだった。話しをするくらいの恩はあるだろう。
それに問題が一つあった。船がないのだ。あの船はどこにもその姿形もない。司竜は何とかすると言ったが、海の者に船があるのかどうかも疑問だった。彼女自身、今はそんなに自由のきく体でも無いし、つまりは海人達に求められるままに、話しに加わるしか無かった。とはいえ、彼女はこの人懐こい彼らが割りと好きだった。
しかしその海人達も、司竜と飛燕が緋に行くと知った時は、やはり一様に驚いた。
「悪いことは言わないよ、止めた方がいいよ。」
「異国のお人、緋の国は妖魅でいっぱいで誰も行けはしないよ。碧だってそうさ。海魔どころか時々緋から妖魅がやってきて、そりゃぁもうひどいもんさ。なんせ緋とは隣国同士だからね。私はカトゥサに住んでいたんだけど、あそこも危なくて、今は他の所に移ってしまったよ。」
「そうか…」
親切に語ってくれた女達に礼を言うと、飛燕はその場を離れた。司竜の姿が見えない。小さな島ゆえ、探すのにはそう時間はかからなかった。
彼は忌み小屋の前にいた。
「司ーー」
声をかけようとしたが、やめた。彼は一人の乳飲み子を前に、何かを語りかけていた。子守という雰囲気ではない。
「ーーかった。このような時が来なければいいと思うておったが…しかし私は地に再び帰ることを願っていたのかもしれない。いや、そう願ったからこそ、このような結果を生み出してしまったのだろう。私は己の不甲斐無さを情け無く思う。ーーしかし同じ事は繰り返さぬよ。奴と共に過ごした間、私は色々な事を知った。今ならやれる。今ならばきっとやれるはず。そうであろう?」
乳飲み子はゆっくりと頷いた。司竜はそれを見ると、嬉しそうに微笑んだ。
彼は随分長い間語っていた。時に静かに、時に激しく。まるで長い間に溜まっていたものをすべて吐き出すように語っていた。その姿は到底、飛燕の知っている彼では無かった。
ふと彼が言葉を切った。そして『お客人がいるようだな』とつぶやくと、飛燕を振り返った。
「飛燕殿?話はすんだようですね。」
「あ、ああ。」
そう言った司竜の姿は既に唯の子守にしか見えなかった。乳飲み子とて、さっきまでの変に子供離れした姿はない。彼女はいぶかしげ見ているのを知ると、また困ったように笑った。
「そうだ、船ありましたよ。この子父親が陸の者らしく、船を持っているそうなんです。借りる約束は取り付けました。」
「そうか!」
パッと彼女の顔が明るくなった。
「どこにある?浜辺か!?先に行ってるぞ!」
言うが早いか、彼女は浜に向かって駆けて行った。司竜は彼女の後ろ姿を見ながらつぶやいた。
「…に、似ているな。」
乳飲み子も頷いた。
浜には確かに小舟が一隻止めてあった。船と言うよりはカヌーと言った方がいいかもしれない。小さな木をくりぬいただけのものだった。しかし緋の海岸線がぼんやりと見える距離だ。カヌーで充分だった。
司竜と飛燕は早速乗り込んだ。海人達は口々に『気をつけて』と言って、別れを惜しんでくれた。その海人の中に、あの乳飲み子もいた。しかし司竜はもはや何でもないかのように振る舞っていた。
帆に風を受けて、小舟は音もなく海面を滑り出した。相変わらず水底には森が広がっている。所処白い建造物も見えた。
司竜は緋まで無事に辿り着けるように、結界を張った、このぐらいの大きさならば、ゆうに結界が張れる、もっとも以前のような大きな船では多少無理はあるのだが…。あの船には気の毒なことをした。」
「しかたあるまい。金は払ってある。そなたが気に病む事でもあるまい。」
結界のおかげか、海魔が襲ってくる気配はない。時々空を鳥が渡っていくほど、穏やかであった。船足も思ったより速い。この分だと、日暮には緋に着くだろう。
飛燕は黙って船を操っている司竜を見ながら、しきりに考えていた。
ーー確かに姿形は司竜に違いあるまい。しかし何だ?この感じは。彼は私よりも年は下だったはず。鷹矢と話をしている時は、まるでガキそのものだった。なのに、この大人びたーいや、まるで何十才も年をとってしまったような感じがする。私などより遥かに年を経ているようだ。……何故こうも一人の人間なのに違うのか?
彼女の疑問は、思わず口をついていた。
「一つ聞くが、何故そなたは私を殿付きで呼ぶのだ?敬称はいらぬと言ったはずだが。」
「?…ああ、そうでしたね。」
「そなた真に安都水司竜であろうな。よもや妖魅が、私をたぶらかしているのではあるまいな。」
答える代わりに司竜は、年には似合わぬ、あまりにも落ち着きすぎた暗い眼差しで飛燕を見つめた。
「何故そう思う?」
「分からぬ。しかし私が知っている司竜とは余りにも違うような気がする。ーーもっともそなたの全てを知っていたわけではないが。一人の人間がこうも変わるであろうか。」
彼の面が引き締まり、暗い影を落とした。
「私……いや、俺は今も昔も安都水司竜にかわりない。どう変わろうと、もはやそれ以外な何者にもなり得ないんだ……」
奇妙な淋しさを含んだ声だった。彼の言葉が何を意味するのか分からないが、飛燕は何故か胸が熱くなるのを覚えた。どうしてなのかは分からない。
それ以上彼女は何も言わなかった。黙って目を伏せ、小舟に身を沈めた。
司竜は物憂げな表情のまま、黙って艪を操り続けた。