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緋の迷宮  作者: 津本美弥
7/14

渡航

 (リウ)飛燕(フェイイェン)は一人、緑と碧の国境にあたる小さな港町にたどり着いていた。森を抜けてから三日、ようやくたどり着いたところだ。エドニ海を渡れば、対岸は緋の国だ。既に森を抜けた所で、鷹矢とは別れている。出来ることなら一緒に景斗に行って、司竜を弔ってやりたかったが、邦が違えばそれは叶わぬ事だった。後は素直に緋の国聖都(イナ)まで行くしかなかった。しかしさすがに塞ぎ込んでいる様子は隠せなかった。

「しかし、静かだな。」

 確かにここは、かなり静かだった。彼女は港のことはよく知らないが、えてして港町と言う所は賑やかで活気に満ちているものだ。それが通りには人一人いなく、露店一つ出ていない。家という家は全て、固く扉を閉ざしてしまっていた。そのくせ時々探るような気配があった。そして街外れの一軒の酒場に入った。

 中にはちゃんと四、五人の客がいて、昼間から酒を飲んでいた。客達は誰もがうろんそうな視線を、彼女に投げかけた。しかし彼女に角があるのを見ると、ホッとしたようにまた酒に没頭した。

 彼女はカウンターに腰を下ろすと、麦酒を注文した。おやじは怪訝そうにしながらも注文に応えた。しばらくは黙って麦酒を口にしていた。(とはいえ実は彼女にしてみれば、とんでもなくまずい酒だった)一通りこのけだるい店の中を観察してから、おもむろに口を開いた。

「緋の国まで行きたいのだが、船は出ているか?」

おやじはギョッとしたように飛燕を見た。客達もそうだ。

「お客さん、今なんて…」

「船が出てるかと聞いたんだ。」

「め、め、滅相も無い。出てるわけがない。第一緋に行きたいなんて気違い沙汰だ!」

おやじはキンキン声で喚いた。

「いったいどこの田舎からおいでなすったね!?噂を知らないのかい。緋の国はもう妖魅の巣窟だよ。なんでも妖魅の親玉が生まれて、緋の人間はみんな食われちまったって話だ。海だってそうさ。海魔がうじゃうじゃいて、死にに行くようなもんだ。悪いことは言わないよ、やめたがいいよ、お客さん。ここ一月ばかり船なんて一隻も出てないんだ。」

 しかし飛燕は引き下がらなかった。噂通り緋の国が妖魅の巣窟ならば、尚更行かない訳にはいかなかった。

「頼む、どうしても聖都(イナ)に行かねばならんのだ。金は払う。都合をつけては貰えぬだろうか。」

「金って、あんた持ってんのかね。」

 おやじが言うのも無理はない。どこから見ても彼女は乞食同然にしか見えなかった。しかし動じた風もなく、彼女は耳飾りを外して、カウンターに置いた。それは金緑石の細工物だった。

「こりゃぁ金緑石!たまげた。この大きさじゃ、一万は下らん。」

「では船をー」

「いいや、だめだ。それとこれは別だ。仮にわしが承知したって船男達が首を縦に振らないよ。」

 おやじはガンとして首を縦に振らなかった。

「そうだぜ、兄ちゃん。」

 いつの間にか男が二人立ち上がって、彼女に寄ってきた。

「たいそうな物、持ってんじゃねぇか。え?どこの命知らずだい。」

「そんなに行きてェんなら、どうだい。その金緑石で俺の船を買わねェか?船を売るくらいならいいぜ。もっともその細っこい腕で漕げたならの話だがな。はっはっはは。」

 男達はかなり酔っているらしく、下卑た大声で笑いたてた。飛燕は無言で立ち上がると、いきなり太刀を抜いた。その馬鹿笑いをしている男達の喉元に刃を突き付けた。

「お前達はそれでも船男かっ!仕事もせず、昼日中から酒びたりとは何たる様かっ。見れば夜叉一族の者らしいが、一族にそのような小心者はおらぬは!妖魅などに恐れをなしおって、恥知らずめが。おまえらのような奴がおっては末代までの恥。今ここで切って捨ててくれる!」

言い終わらぬうちに、彼女は太刀を大きく振り上げた。その彼女の剣幕に驚いて、男達は腰を抜かし、へたりこんでしまった。

「まあ、待て。」

彼女が太刀を振り下ろそうとした時、不意に店の一番奥で飲んでいた男が、立ち上がった。

「あんたの言う事も尤もだ。どうやら見かけとは違って身分が良いと見える。ーーわしが船を出そう。」

 男は夜叉の者ではなかったが、船男らしく切符が良さそうで、律儀そうな人物だった。

「そなたが?」

「ああ。実の所、さっきも一人に船を出す約束を取り付けてきたばかりだ。一人も二人も同じだろ。ーその金緑石はわしの物だな。出発は明朝だ。……もっとも何が起こっても責任はもてんがね。」

男はカウンターの金緑石を取ると、のっそりと酒場を出ていった。飛燕も早々にそこを立ち去った。


 次の日の早朝、朝もやがまだ残る中、飛燕は船着き場に赴いた。約束通り、昨日の男が船を用意して待っていた。決して見てくれの良い船ではなかったが、船旅を楽しむ訳でもなく、緋に着けさえすればよいのだ。彼女は早速乗り込んだ。見ると甲板に、すっぽりとフードに覆われた客が一人先に乗り込んでいた。もう一人の命知らずらしい。

 彼女が乗るとすぐに、船は港を出た。見送る者などむろんいはしない。たとえいたとしても、酔狂な目で見られるのがおちだろう。それほどまでに、誰もが緋に行くことを拒んでいた。

 そんな人々の思いとは裏腹に、船は順調に海上をすべるように進んでいた。

 空は紺碧の広がりを見せ、風は心地よい。海面は恐ろしく透明に近い碧だった。そして楽々と見渡せる水底には、深い青緑の森が延々と続いていた。まるで陸の森をそのまま海中に持ち込んだような景色だった。果てしなく続く木々の波。ーー碧の国とはよく言ったものだ。しばし自分の責任を忘れて、飛燕はその景色を見入っていた。

 ここーー天郷の内海として広がるエドニ海は碧の領土だった。

碧は《海の者》の住まう国土だ。海中に街を造り、陸に上がるのは子を産む時だけで、彼らは人生の大半を海の中で過ごした。

「もうすぐ街が見えまさぁ。」

船男が言った。

 街も気にかかるがそれよりももう一つ彼女には気にかかる事があった。先程から彼女と同じように海を眺めている、もう一人の客の事だった。フードのため顔も見えず、それに一言も口をきこうとはしない。男か女かも分からない。ーー妙に気にかかって仕方なかった。とはいえ、そうじろじろ見るのも何だし、風でも出てきたのを見計らって、彼女は船室へ降りていった。

 どれくらい経っただろうか、いつの間にか飛燕はうつらうつらとしていた。その時突然船が大きく揺れた。彼女はすぐに飛び起きると、船室を飛び出した。ちょうど泡を食ったように降りてきた男とはちあった。

「お、お客さん。出た。海魔だっ!」

「何っ。」

飛燕は甲板へ駆け上った。

 外は嵐だった。あの穏やかだった海が、まるで嘘のように激しく荒れ狂っていた。雷鳴が轟き、波は大きくうねっている。船は波の合間で錐揉みして、今にも沈まんばかりだった。

 フードの客が一人水しぶきを浴びながら、海面を凝視していた。その目線の方向に、波に見え隠れしている何かがいた。

「海魔かっ。」

見れば四方八方にいる。あの腐蛙に負けず劣らずおぞましい、魚類の禍物だった。それが何十匹と波間に浮かんでいる。それどころか、船にさえ張り付いていた。飛燕は太刀を抜いた。甲板に移ろうと、飛び上がってくる輩を片っ端から断ち切っていく。船男は自分で船を出しておきながら、やはり怖いらしく、隅で震えながらしきりにぶつぶつ祈っていた。しかし祈るのならまだましだ。もう一人ーーフードの客は、剣を持つでもなく、また祈るのでもなく、ただ甲板に立ち尽くしているだけだった。

「きさま何をしている!殺られたいのかっ。」

飛燕はムッとした。緋の国に行こうと言う命知らずだ。どんな奴かと思えば、たいしたでくの坊だ。

 しかしその考えはすぐに捨てなければならなかった。一匹がその客に飛びかかろうとした時だ。いきなり目に見えぬ力を浴びたかのように海魔は、ギャっと叫んで圧し潰れた。腐った魚の臭いと共に漿水が飛び散った。

「祓士!?」

 それはまさしく安都水の祓士の力だった。

「そなた安都水の祓士なのかっ?」

姿を見ようと、駆け寄ろうとした時だった。船が大きく傾いた。

「っ!!」

飛燕の体はバランスを失い、そのまま宙に投げ出された。しかし海中に落ちる瞬間、彼女は見た。風にフードが剥がれ、髪をなびかせたその姿をーー。

「ーー!」

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