襲来
「そっ…か。それで青湖を出たのか…。そうだよな、森を抜ければはるかに緋には近いもんな。」
司竜はウンウンとうなづくと、うづくまっている陸飛燕を見た。かなりの間、司竜は彼女の話を黙って聞いていた。
夕餉の後、飛燕はポツリポツリと話はしたものの、決して多くは語らなかった。
「ーー不思議だな。」
飛燕は顔を上げて、司竜を見た。
「何故か司竜殿には、話してもよいとおもった。」
司竜は既に寝入っている叔父と鷹矢を見た。彼にしてみれば、なかなか寝付けないでいる彼女の話相手ぐらいにはなれるだろうといった、軽い気持ちしか無かった。それが何故か彼女の方から、すんなり語ってくれたのだ。司竜は照れ臭そうに笑った。
「でもさ、やっぱ無茶だよ。夜に森に入ろうなんてさ。」
「心配はない。その証拠に今こうして無事ではないか。」
ニッと気の強そうな笑を見せる。ーーさっきまでの頼りなげな表情は無い。
「そりゃそーだけどさ。ーあーあ。そういやぁ姫は昔からそうだったよなぁ。」
「昔?」
キョトンとしている彼女を横目に、司竜はクスクス笑った。まるでいたずらっ子のようだ。
「俺、ずっと昔に姫に会ったことがあるんだぜ。」
「ーー私は覚えてはおらぬぞ。」
「そりゃそうだ。見たことあるだけだから。まだ俺が祓士になりたての頃だったから、六歳くらいかな。仕事の帰りにさ、王宮の中庭でーー。誰かと剣の稽古してて、俺絶対あの時、男だとおもったんだよなぁ。やたらと気ぃ強くって、何回負けても止めようとしないの。相手が止めようって言っても『私に負けるのが怖いのか』って。俺すげぇなぁて思ったんだぜ、あん時。」
司竜の言いように飛燕はおもわず吹き出した。実際口調はかなりぞんざいだったが、それが返って沈みがちな彼女の気持ちを、一瞬でも忘れさせてくれた。
どこか白狼に似ている。ーーふと飛燕は思った。
少々品性には欠けるが、言葉の端々が暖かい。だから彼には話すことが出来たのかもしれない。……
「なあ司竜殿。姫ではなく飛燕でいいぞ。姫と呼ばれると、どうも背中がむず痒くてな。」
「だったら俺も殿はいらないよ。」
そう言って見合った互いの顔には、何十年来の友だったかのように親しみのこもったものがあった。
朝の森は、それでもいくらか明るかった。高く天空を覆う枝葉の間から、微かな光が漏れて来る。ーーそれなりにすがすがしい朝だ。
「ちょっとちょっとぉ。何なんだよお宅ら、いつからそんな呼び捨てに出来る仲になったわけ?」
開口一番、鷹矢がわめいた。
「おい司竜。お前って奴は、そんな奴とは知らなかったぜ。俺達従兄弟じゃねぇか。ぬけがけは無しにしようぜ。」
「何言ってんだい。」
飛燕はといえば、ただ笑って見ているだけだった。
朝餉の後、司竜と鷹矢は叔父と別行動をとった。飛燕を森の外れまで送るためだった。飛燕は昨晩のこともあって、黙って申し出を受けた。しかし聖都まで送ろうという申し出は、丁寧に断った。これは彼女の問題であり、彼女は人に関与されることが嫌いだった。
幸いなことに、森は静かだった。
「ところでさ、飛燕は聖都に行くんだろ。本当にいるわけ?夜叉王は。」
鷹矢が言った。
「どう言うことだ?」
「いや…。あのさ、ひょっとして別の所にいるって考えないわけ?」
飛燕はしばらく考え込んでいたが、やがてきっぱりと言い放った。
「兄上が行くとおっしゃったのだ。だから何があろうとあそこにいらっしゃるはず。万一そうでないにしても、私は行かねばならぬのだ。あの短気な父王のことだ、納得なさる答を持って帰らねば、自ず聖都とは戦になる。邦同士ならいざ知らず、国を超えての戦は避けねばならん。」
もっともな話だった。
「そりゃそうだ。国挙げて戦されちゃぁ。危なくって仕事なんかできやしない。そうなったら俺達《廃業》だぜ。」
何とも鷹矢らしい、現実的な回答だった。どうも彼と話しをすると、あらぬ方へ話題がそれてしまう。おもわず飛燕は真面目に話をしていたのを忘れて、吹き出してしまった。
「まったくそなたは奇異な奴だな。」
昨夜から鷹矢の言動に笑わされっぱなしの彼女だった。
しかしこのくだけた雰囲気の中で、司竜一人が別の様相をしていた。
「…なんだよ司竜。お前やけに難しい顔してんじゃねぇか。」
「いや……」
司竜は生半可な返事を返し、胡乱そうに鷹矢を見た。
「あのな…えとーー」
「なんだよ、どうしたんだよ。」
ーー何も感じないのか?ーー
言いかけようとしたが、思い直したのかまた黙って考え込んでしまった。ーー何をどう言ったら良いのか。実は彼自身よく分からなかったからだった。
先程から司竜は、なんとも嫌な気分を感じていた。話しをしてても、頭の隅で何かがチリチリ言っているようで、気になって仕方がない。妖魅かもしれない。でも、はっきりとは分からない。得体の知れない何かが、しきりに司竜の神経をつついて、彼をいらつかせていた。気配を読み取ろうにも、その片鱗すら感じない。遠いのか近いのか、もやもやとしていて全てに見通しがきかなかった。ただ言えるのは、明らかな《悪意》が存在すると言うことだった。
「司竜…?お前顔色が悪いぞ。」
飛燕が司竜の顔を覗きこんだ。
「おい司竜。」
「何でも…ない。早く出ーー」
言いかけた時だった。突然、錫杖が激しい金属音を響かせた。
「な、何だ!?何が起こったのだ!」
「共振っ!!妖魅かっ。」
「馬鹿な。気配なんて全くなかったぞっ。」
三人が慌てるのも無理はない。今の今まで妖魅の気配などこれっぽっちも無かったのだ。しかし現に彼らの周囲は数知れぬ妖魅が押し寄せている。
「な、何でだよ。何で気がつかなかったんだよ。」
三人共動揺を隠せなかったが、それでもしっかりと攻撃態勢をとっていた。
ーー頭に引っかかっていたのはこれか?
「すまん飛燕。こんなことになって。」
「気にするな司竜。森はそう言うところだ。どうせ雑魚 ばかりだろう。太刀馴らしにはちょうどいい。」
そう言うと彼女は不敵な笑みを見せた。彼女の太刀は早、鞘から抜かれて鋭い銀光を放っている。
「そうだな、どうせ雑魚だ。」
腐蛙ーー名の通り腐った蛙だった。身の丈は人程もあろうか。全身青黒く、腐汁が詰まった吹出物に覆われた、この上なく醜い妖魅だった。一見鈍重そうに見えて、その実奴らはひどくはしっこかった。
「相変わらず胸クソが悪ィ。」
吐き捨てるように鷹矢が言った。見慣れてるとはいえ、決して見たいと思う代物ではない。ましてやそれが大挙しているとしたら尚更だ。
「やるか。」
「ああ。」
「わかった。」
次の瞬間彼らは三方へ散った。一気に森は騒然となった。確かに彼らにしてみれば、腐蛙などただの雑魚同然。ものの数にも入らない。しかし切っても潰しても、どこに潜んでいたのか後から後から湧いてくる。辺りには悪臭が充満し、既に三人共腐汁にまみれてひどい有り様だった。雑魚とはいえ、その数はあまりにも多かった。
埒があかないのを見て取った司竜は、立ち回りながら《
呪言》を唱え出した。鷹矢はそれを見ると、素早く飛燕の側に駆け寄り、結界を張った。
「何だ?」
「結界を張った。あいつの十八番が出るんだ。」
「なんだって?」
司竜は瞬時に三匹を断ち切ると、やおら錫杖を天空に突き上げた。
そしてーー
『安都水の祖にして護神たる飛焔の龍よっ。御身に我が叫びを宿し、我が召喚に応えよっ!』
直後、凄まじい轟音と共に千条の光が降り注ぎ、大地を貫いた。黒い森は一瞬にして白い森に転じた。そして再び黒さを取り戻した時、腐蛙の姿はどこにも無かった。影すら残さず、総て滅消していた。
飛燕は強い光に目をしばたかせ、茫然と立ち尽くしていた。
(これは…何だ?このような技を有した祓士など初めて見たぞ。この破壊力はいったい……彼のどこにこのような力があると言うのかーー!?)
「お見事。」
鷹矢の言葉に、司竜はやっと笑みを返した。
「い…や、すごいな。このような術を使う祓士を初めて見たぞ。」
「ははは。」
飛燕の素直な驚嘆と賛美の眼差しに、司竜は照れて頭を掻いた。
「正直言ってそなたがこれほどの者とは思わなかった。その年でこうだ。きっともっと強くなるぞ、そなたなら。ーそれに私は強い奴は好きだからな。」
「え……」
どうも同じことを言われるのでも、故郷の老達と彼女では勝手が違う。彼女の眼差しとて老達となんら変わらないのに、腹立つどころか、何となく嬉しくさえなってくる。何と返事を返せば良いのか分からなくて、しどろもどろしている。その司竜の耳元に鷹矢が囁いた。
「そりゃいいよな、じじいに言われるよかさ。」
この一言で一気に耳まで赤くなった。
「あ…お、俺ちょっと、その…用足し。」
ひきつった笑いをしながら、小走りに森の奥へ行ってしまった。
「どーしたんだ?司竜は。」
「あいつにも春がやって来たってところかな。」
「っくしょう。鷹矢の奴。」
楡真の根本で用を済ませながら、司竜はぼやいた。まだ顔がほのかに赤い。
(強くなる……か。悪い気はしないよな。ああ言われて)
「強くなる…」
そう呟いた時だ。いきなり背筋に悪寒が走った。
忘れていたあの不快な感じが、再びカマ首をもたげてくる。顔のほてりも一瞬にして冷め、表情は凍りついた。
ーー強くなる前に
誰かが呟いた。
ーー強くなる前に
まるで独り言のようでもあり、呼びかけているようでもあった。
「誰だ?鷹矢か…?」
ーー今ならやれる。そうだ、い・ま・な・ら
「誰だっ。さっきの奴かっ姿を見せろっ。」
錫杖をしっかりと握りしめて、四方へ向かって叫んだ。しかしどこにも何かが潜む気配は無い。それどころか声がする方向さえつかめない。あえて言うなら《声》は地の底からでも響いて来るようだった。
「何がやれるっていうんだ!」
嘲笑がこだました。
司竜の姿ーー探しあぐねてキョロキョロするばかりのーーが、おかしいんだろう。《声》は馬鹿にしきったように、激しく嘲笑っていた。
司竜はカッと目を見開いた。
「やれるもんならやってみろっ!」
嘲笑が止んだ。
もはやこれは不快と言う域を越えていた。戯れ言は終わったかと言うように、《声》はその本心をあらわにした。ーー明らかな敵意と殺意。司竜は身震いをした。だらしなく足が震え出す。
怖いーー本気でそう思った。それほどその思念は凶悪だった。しかも圧倒的な自信を備えてさえいた。
「くっ。」
恐怖を振り払うように、司竜は錫杖を振りかざした。かつて感じたことのない思いが、沸々と沸いてくるのが分かる。
ーー何でこんなに恐いのか、何でこんなに腹立たしいのか。
しかしそれが更に《声》を刺激した。
ーーまただ。まだ片身だけ…奴はまだいない。今なら殺れる。
「だまれぇぇっ!」
森が大きく揺れた。楡真の巨木は根こそぎ薙ぎ倒され、土砂は四方に飛び散った。大地は引き裂かれ、天空が口を開け、森を白日の元に引き戻した。
森の死ーー
住まう妖魅共々、森は半壊してしまった。
「誰…?」
静かに真・那・留宇がつぶやいた。
四聖宮の奥深く、御堂で、彼女は祈りに没頭していた。
「誰なのですか?」
答えは無い。しかし確かに誰かの声を聞いた。
兇羅が現れて以来、彼女は久しく声を聞くことは無かった。何故なら耳を開けば聞こえるのは兇羅の禍々しい呪語ばかり。聞けば心は張り裂けんばかりに痛んだ。あれほどいた僧達もいない。今や四聖宮は、彼女一人が守人であった。
「羅・那なのですか。」
彼女は祈りの手を止め、立ち上がった。
「羅・那!?あなたなのですかっ!?」
何かが彼女に触れた。
彼女を痛ましく思うかのように、優しく、いたわる様に触れていった。
ーー羅・那・久宇では無い。似ているけど、違う。…そう、ひどく深くて…ひどく悲しい、古い大きなもの……。
「まさか。」
「まさか、あなた様なのですか?」