起因
その日、陸飛燕はすこぶる機嫌が悪かった。
理由は《沙江》空の使者にあった。
《沙江》は青湖より西に少し行った所の小さな邦で、陸家とは遠縁にあたる弱小豪族が治めていた。
「真なのかっ、それは!」
使者が持ってきた報告は、沙江が滅び去ってしまったというものだった。
緑の国では邦同士の争いで、一方が滅亡することなど珍しくも無い。しかしこの沙江に限っては、縁続きもあって青湖から援軍を出していたのだ。事実上、緑の国一の最強の軍をだ。にも関わらず沙江は滅び、帰還した援軍は一人もいなかった。
飛燕にしてみれば、考えられない負け戦だった。だから使者ーー見るかげもなく窶ずれ果てた、が報告した時も、父王がいるにも関わらず、真っ先に怒鳴っていた。
「陸家の兵士はそれほどまでに腰抜けかっ!?たかだか田舎豪族ごときにしてやられるとは何事かっ。恥を知れぃ!恥を。」
彼女のあまりの見幕に大臣達は口を挟むことも出来なかった。父王は黙って目を伏せていた。
「し…しかし姫様。陸の兵士は皆強者ぞろい。腰抜けとはあまりの御言葉ー」
ようやく武官の一人がおずおずと口を挟んだ。飛燕は蛇のような冷め切った目付きで、その武官をねめつけた。
「ほぉ…?その優秀な兵を全滅させた奴とは、さぞかし凄いのであろうな。見てみたいものだな。え?そうであろう?」
抑揚のない声に、武官はその場に氷ついた。使者などは顔も上げられないようだった。
「もうよい。下がれ飛燕。」
頃合いを見計らったように、おもむろに父王が口を開いた。
「しかし、父王ーー」
「下がれっ。」
さすがに父王の凄みを効かせた一喝に、その場を下がらざるをえなかった。
腹の虫が治まらないまま自室に戻ると、乱暴にベッドに寝転がった。と同時に戸をたたく音が響いた。
「飛燕。私だ、入ってもよいか?」
彼女は慌てて跳び起きた。入って来たのは、兄の白狼だった。
「機嫌が悪そうだな。」
「ーーだって兄上は悔しくないのか?沙江が滅んだのだぞ。しかも我が兵士を撃ち破って。このままではすまさんぞ。目に物みせてくれるっ。」
白狼は苦笑した。
「あいもかわらず威勢がいいな。…だがな飛燕。お前はこう言うと怒るが、沙江は滅んだ。全てが済んでしまったんだよ。今報復を持って陸家ーーいや、青湖が動けば、必ず総てを巻き込んでしまうだろう。しかもこれに乗じて、青湖に攻め入ろうとする輩も出て来るであろう。これが分からぬお前ではないだろう。」
穏やかだが有無を言わさぬ強いものがあった。
飛燕は、この七つ違いの兄を尊敬していた。文武両方に秀で、しかも血の気の多い夜叉一族にあって、彼は珍しく温和な気質を備えていた。ともすれば一族は何事もごり押ししがちなのに、彼はそれすらも超えていた。だから時として父王にさえ反発する彼女なのに、とんと白狼には頭が上がらなかった。
「でも私はせめて、陸家の兵士を討ち破った者を見てみたいのだ。」
「無理だな、それは。」
「何故!?兄上は、私にはかなわぬとおっしゃるのか!?」
「いいや、そうは言わぬ。人相手ならば姫にも分があろうが、《兇羅》相手ではな。」
彼女は呆けたように白狼を見た。そして突然笑い始めた。
「おかしいかい?」
「おかしいも何も、突然なにをおっしゃるのかと思ったら。ばっ…馬鹿馬鹿しい。あれはただの伝説でしょうに。あんな話を信じるとは、兄上らしくない。」
彼女はどうにも堪えきれないらしく、しゃがみこんで体を震わせて笑っている。しかし彼は真剣だった。
「事実使者は兇羅に率いられた妖魅に攻められたと言っている。」
「そのような戯れ言を信じる兄上でもありますまい。」
「飛燕。」
静かに、彼は言った。
「伝説は何も無い所からは生まれないものだ。多少は変格するだろうが、あれは実際に起こったことだと私は信じるよ。第一このところの妖魅の横行は、まるで水を得た魚のように活発ではないか。水とは即ち兇羅ー彼らの統率者だ。これはまるで五百年前と全く同じだ。お前も知っていよう、陸家に伝わる《史書》を。やはり兇羅に従って、妖魅が猛威を奮っていたと書かれている。しかもあの頃は邦ではなく一つの強大な国であったのに、崩壊をきたし今のような小さな邦の寄り集まりになってしまった。沙江のような小さな邦を滅ぼすなど造作もないことであろう。」
しかし飛燕には、昔の書物と今とを同一視することは出来ない。
「しかしあれは五百年も昔の話ではありませんか。それに妖魅がいたから国が滅んだのではなく、国同士が争ったからこそ、共倒れしたのです。力が同じ者同士が戦えば、共に滅びる。当然ではないですか。だいたいその《兇羅》なる妖魅、いったい誰が見たのです?使者が見たのですか?兄上のおっしゃる《史書》を引き合いに出せば、兇羅なる妖魅『姿が見えぬ奇怪な輩』ではなかったのですか?それがどうして兇羅が出たなどとーー。兄上、伝説は時が経てば大袈裟に書き換えられるもの。兇羅を封じたと言うのが《守護者》なる僧と言うのが、いかにもらしいではありませんか。」
白狼は短い溜め息をついた。しかしそれ以上なにも言わなかった。
ただ静かに、どこか悲しげなまなざしで飛燕を見つめていた。
十日程後、陸白狼は父王の名代で聖都に向かった。同行したいと言った飛燕を退け、共もつけず彼は一人で行った。出来ることなら彼女は無理にでも同行したかった。しかし彼が許さない。
ーー彼女自身、多少なりとも不安があった。《兇羅》と言う言葉が、頭にちらつく。あの封印されたと伝える場所は、外ならぬ聖都だったからだ……。
そして彼女の不安通り、彼が再び青湖に戻らなかった。行方さえようとして知れなかった。