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緋の迷宮  作者: 津本美弥
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来訪

かつて、私の知りうる限りでは、《天郷》には二度の大きな時代の流れがあった。

私は人の身でありながら、人よりも遥かに長く、時代を見つめ続けてきた。そして私は確信したのである。

《天郷》の時は、決して変わることがないのだと。ここに住まう人も、人ならぬものも総てをのみこみ、その姿を保ち続けるのだ。あの大きな時代の中にいてさえ、何らかわることが無かった。

人は《天郷》と共にその一生を終わる。

人は《天郷》であり、私もまた、その一人にすぎない。

私が見つめてきた気の遠くなるような時が、なによりも総てを語ってくれるだろう。私はこれを語らねばならないだろう。ここに住まう総ての人のために。



 恐らくは、何の予兆も無かっただろう。それは突然あらわれた。

広間の何も無い空間から苦しげに身をよじり、ずるりずるりとこちらへ出ようとしている。それが蠢く度に空間は揺らぎ、裂けんばかりに軋んだ。あまつさえそれの奇怪な呻きが聞こえるようだった。

確かにこれは誕生の瞬間だった。

「羅・那?」

 彼は茫然と立ち尽くしていた。言葉も無く恐怖に表情を凍りつかせて、それーー異形のものを凝視していた。

「羅・那!」

悲鳴に近い叫び声で、彼は我に返った。傍で巫女が一人、不安気に彼を見詰めていた。

「羅・那・久宇、僧達が騒いでおります。空気がおかしいと、不吉な気が四聖宮に漂っていると言っております。いったい何が、何が起こったのでしょう?」

「真・那・留宇、そなたにはーー」

いいかけて途中で口をつぐんでしまった。

(気は感じても、真・那には見えてはおらぬか。いや…恐らくは誰にも見えてはおるまい。)

見えなくて幸いだったと、つくづく彼は思った。

 それを見ることのできたのは、役にも立たない双眼を持った彼一人であった。眼に光を宿している者は誰一人として、それを知覚することはなかった。

 彼が見ているそれーー異形の者は、まったく想像を絶する代物だった。ありとあらゆる原色で塗り固められた不定型な有機質。さもなくば巨大な蛆か…

 およそ人が考えつく全の醜悪物にしたところで、それには足元にも及ばぬだろう。凄まじくもおぞましい吐瀉物の固まりが、そこにあった。しかも事もあろうに吐瀉物は、自らの意思をもってこの世に生まれようとしていた。

「羅・那、あなたには見えていらっしゃるのでしょう?何があるのですか、何がこのように不吉な気を発しているのですか?」

 端正な彼女の顔は、言いようのない恐怖で歪んでいた。彼はさもおぞましげに呟いた。

「妖魅、いや、もはや兇羅だ。」

真・那・留宇の顔が、みるみる青ざめていく。

「所詮、封印などは破られるもの。しかも今となっては、要の守護者を一人欠く始末だ。いづれはこのような時が来るとは思うておったが…」

「でも、でも今は僧達がおりまする。私達もおりますのに!」

「つまり我々では力が足りなかったという言うことだ。我らはあくまで僧にすぎぬ。守護者と我らでは、力など比べものにもならぬ筈。現に封印は破られ、兇羅は目の前にいる。こやつは知っていたのだ。この東位の間が、守護者を欠く絶好の場だということを!…迂闊であった。」

きつく唇をかみしめる。

 真・那・留宇はあまりのことに、彼にすがりついた。

 こうしている間にも、それは生まれ落ちようともがいている。彼は再度唇をかみしめた。

「案ずるな。私とて四聖宮の神官。黙って見過ごすつもりはない。」

穏やかにそう言うと、真・那・留宇に下がるように指示した。彼女は何かを言おうと口を開きかけたが、既に彼は広間の中央へと歩き出していた。彼女は彼を信じて引き下がるしかなかった。

 幸いなことに異形の者は、生まれ出るのに忙しいらしく、まだ二人の存在に気付かない。

 見れば見る程、忌まわしい姿だーー!

 彼の目が半眼に開かれる。背中に豊かに垂らした青銀色の髪が、波のように揺らめいた。そして異形の者の前に立ちはだかるように、両腕を広げた。

 その時だった。それがゆっくりと彼を見た。

どこにも目とおぼしきものが無いにもかかわらず、それは彼を知覚し、ねめつけた。

 瞬間、彼は全身に凄まじい気の固まりを受け、吹き飛ばされた。

「きゃあぁぁ!」

絹を裂くような真・那・留宇の悲鳴。

「来てはならん!」

彼の背筋に戦慄が走った。

(なんという力か、これほどまでにー!これは何としても封じねば。いや、せめてーー)

 彼は兇羅の嘲笑を感じながらも、よろよろと立ち上がった。

「羅・那っ!」

 光がはじけた。

雷鳴にも似た轟音と共に、目も眩む閃光が四散した。それは、すべてを無に帰す、浄化の光だった。

 光が掻き消えた時、彼女は確かに見た。ーーひとにあらず、半ば土に帰りかけている、羅・那・久宇の枯渇した肢体。そして虚空に引っかかっている、吐瀉物のモニュメントを。

「兇羅…」

 真・那・留宇は絶句した。そして物言わぬ彼の体を抱いたまま、茫然とへたり込んだ。

異形の者ー兇羅の存在はあまりにも大きすぎた。彼の全精神力と引き換えに得たものは、封印することかなわず、この四聖宮ー東位の間に生きたまま釘付けにされた、兇羅の姿だった。


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