奇怪な男
ソフィーは待ちわびていたという男に全くの見覚えがなかった。不審な顔をしていると、彼はさらに不気味な笑顔になっていく。初対面の人に見覚えのないことを言われて少し混乱していると、ボートは男の話の続きを言わせないかのように容赦なく切りかかった。それを見てハッとしたレイも氷の魔術を用いて空間を凍結させていく。
ほとんど奇襲に近い形で振るったボートの刀は、透明の目に見えない何かに防がれて男に届かない。彼はまるでボートに興味がないかのように彼を見向きもせずにただ短剣を抜いただけ。予備動作もないに等しいたったそれだけの動作でこんな芸当ができるはずがない。レイもソフィーも突然の出来事に言葉を詰まらせた。
「君、本当に危ないなあ。もしそのまま刀が私に届いていたら一体どうするつもりだったんだい?」
「言うまでもないだろ。お前が死んでただけだ」
彼はすぐに短剣をしまうと、その手を柄に触れたまま興味を失った相手をするつもりはないと言わんばかりに視線を再びソフィーの方へと戻す。
このままでは敵の間合いには入れないと悟ってボートは退きながら刀をしまう。彼の後ろでは今まさに実験が始まろうとしていたのか、意識を失った子供が無機質な台の上に乗せられてその小さな手足を固定されていた。
まるで手術室のような部屋だ。嫌に洗浄された空気が肺を通って気分はむしろ悪くなる。彼は先ほど咄嗟に抜いた短剣の代わりに落としたメスを手術台に戻すと、こちらに向き直って改めて自己紹介をした。
「私はヘイス。キミの代わりに新しく12の騎士に所属することになった者だよ、よろしくソフィー」
あくまで見ているのは私。隣にいるボートはさっきの一撃を与えられなかったことに加えてさっきから無視されているのでかなり機嫌を悪くしていた。だけど男の間合いに入れない以上、こちらから何かアクションを起こすのは下策だ。彼の左手が触れているあの剣によって何らかの魔術を行使していることは分かるけれど、それが何か分からない。でもだからと言って何もしないで子供が危険にさらされるのもダメだ。相手はこちらを観察したままで、ソフィー達は手を出すことができない時間だけが流れる。
「ヘイスと言いましたね。そこにいる子供をどうするつもりですか」
綺麗な女性に声を掛けられて彼は翻すように態度をよくした。まるで近しい間柄の人間のように彼はレイの質問に真摯に答えてみせる。
「良いところに気が付いたねレディ。彼は今日の実験体になってもらうのさ。我々がこんな地下深くを根城にしている理由は、現実世界で生まれることのない神代の魔術師を生み出すためなのだからね」
意識を失いながらも小さな声で呻く少女とも少年とも見れる子供。その子供を前にしてレイは今にも飛び出しそうな衝動を必死に抑えるために、剣に手をかけては離してを繰り返していた。
神代に至る魔術師。もしそんな人が生まれたとしてそれを彼が利用するのは恐らく天使を滅ぼすため。成功しても失敗しても子供たちが助かる道なんてものは存在してない。そんな風に人を物のように扱っていることがソフィーにはとても許すことができなかった。
「その子供を解放してヘイス」
「おやおや、聞いていたのかい?私はここで実験をしている最中なんだ。そう言われて引き渡すわけがないだろう」
前に出て説得に出たソフィーだったが、彼の態度は話し合うことを拒むように挑発をして終わる。彼は私たちが立ち尽くしているのをいいことに実験の続きを始めようと手術台に向かおうとしたが、急に落胆したようなため息をついたかと思うとこちらに向き直った。
「そう思っていたんだがね、この子はキミたちに返そう。ついでに、失敗作たちももう用済みだ。この際処分しようか。さぁ、あいつらのもとへ行ってやるといい」
突然改心したかのような彼の言動を理解する間も与えられずに男が指を鳴らすと、部屋の左右にあった扉が一気に開いて子供たちがぞろぞろと出てくる。子供たちはゆっくりと歩きながら声も出ないほどに泣いていた。
その隙にヘイスは奥の部屋へと続く道を開けると、そこを進んでいき扉を閉める。追いかけようとしたけれど涙を流したたくさんの子供たちに阻まれて進むことができない。
「みんな、少しだけどいてもらうことはできないかな?」
「お姉ちゃん、助けて」「体が言うことを聞かないの」
みんな耐え切れなくて泣き出す。なのに子供たちの動きは止まらずにソフィー達を足止めする。さらにはその手に武器を持ったかと思うと襲い掛かってきた。これじゃあまるで傀儡人形みたいだ。
「おいどうするんだ。これじゃあ防戦一方だぞ!」
「ダメです、この子たちには待っている親がいるのですから」
何とかギリギリのところで子供たちに傷をつけずないでいるボートがレイに指示を仰ぐが彼女も自分の事で精一杯だ。だけどこの状況もあとどのくらい持つかは分からない。とても年相応とは思えない魔術が込められた威力のある子供たちの攻撃は止むまない。子供たちの意識を失わせて戦わされている子供たちを減らしてはいるけどこの調子だともうあの男を追うことはできない。
ひとまずソフィーは自分に出来ることを探した。子供たちの体はどこもかしこも継ぎ接ぎだらけで、どれだけ多くの実験が繰り返されてきたのかがそれだけでも伺えた。
ただ力のある魔術師を生み出すことのためだけに実験を繰り返された子供たちが苦しむのが酷く辛く、同時に私が出ていかなければこの子達が悲しむこともなかったのではないかとあり得ないことを考えてしまう。世界を救うためには少数の犠牲はつきものだと、物語ではよく言われるけれどこんな子供たちを殺して助ける世界は果たして本当に救ったなんて言えるのだろうか。
「おい!ソフィー、聞いてるのか!」
何度目かのボートの呼び掛けにハッと意識を戻す。周りが見えていなかった。振り返るとボートの腕には子供たちを傷つけないようにした代償としていくつかの切り傷が付いているのが見えた。
「レイ、ソフィー。ここは諦めろ。俺たちはアイツを倒さなくちゃならないんだ。たとえこいつらが犠牲になったとしても。目の前の助かるか助からないか分からない子供たちを救うのと、さっきの部屋にいたみたいにまだ助かる子供のどっちを優先するんだ。このままだと誰も助けられないぞ」
「でもそれじゃあ!」
「じゃあ、あんたはこの子達を連れて帰って親が喜ぶと思っているのか?」
「私だってそんなのは嫌だよ」
助けて、助けて。
子供たちの声がいつしか強くなっていく。彼らの命を奪うことが苦しんでいることから助けることになるのなら、心の痛みは消えるのか。いや、そんなの消えるはずがない。懇願は切望に変わって、諦めになる。彼らの目には希望はもうなかった。
「結んで締めろ。その糸はあなたを離さない。糸留め」
レイがその手を握る子供に剣を下ろそうとした瞬間、ソフィーは自身の魔術で子供たちの体を糸で拘束する。蜘蛛の糸を模したその魔術は捕縛性能に長けた代物で、子供たちはあっけなく囚われてしまった。
「これで先に進めます。倒す必要はありませんから」
ここで縛られたままでいれば、あのヘイスという男を倒した後に助けることができるはず。ただでさえ苦しんでいるはずの子供たちをこのまま殺してしまうなんてあまりにも酷すぎる。きっと助けられる方法があると信じたかった。
「まぁそれでもいいが。……まて、ソフィー。あいつの胸にあるのはなんだ」
粘性のある糸でみんなをひと纏まりにして拘束した中に一人だけ胸が光る少年がいた。よくよく見てみると心臓の鼓動と呼応したように光を放っている。当の本人もそれは身に覚えのないものらしく、全員が注視するとより不安が溢れて涙は止まらない。
「こんなの分からないよ。どうすれば」
少年の必死の言葉にたぶん嘘偽りはない。だとするならこれもまたあの男が仕掛けた何らかの罠のはず。すでに男のすがたが無い以上それが何なのかを知る術はない。
「もしかしてこれは」
レイが何か分かる直前、その光の点滅は急に不規則になる。数刻もしないうちにその点滅は目で追えないほどまでに加速していくのを見てボートは咄嗟に二人の腕を握って少年から離れる。点滅が収まった瞬間、少年の体は膨張してそのまま破裂した。
「えっ?」
「…………」
その少年の体の爆発は、糸によって拘束されていた他の子供たちを巻き込んで一帯に血と肉を撒き散らせる。生暖かい血液が頬に飛び散ってさすがのレイも感情を押し殺せずに嗚咽を漏らす。一瞬で部屋は静寂に包まれて、時折音をたてて崩れた体から蒸気をあげながら臓器が零れ落ちる。何もすることのできなかった二人はその場で立ち尽くして、彼女が後悔で涙を流すのをただ見ていることしかできなかった。
しばらくして彼女が顔を上げるとその顔は赤く腫れていたが同時に気持ちの整理はついたみたい。剣を鞘にしまって静かに子供たちに手を合わせたので二人もそれに倣って手を合わせる。
「すみません、ひどい姿を見せましたね」
「そんなことないです。ヘイスを、倒しましょう」
それしか子供たちに捧げるものがない気がした。地面いっぱいの血の上を通って私たちは男を追う。タイミング良く階段で降りて来ていたフワモたちと合流した。
「レイさん、浮かない顔してどうしたんですか?」
何も事情を知らないフワモが合流して早々に異変に気が付くと彼女に尋ねる。彼の言葉は再び彼女の涙を呼び起こそうとしたが、騎士としての矜持なのかなんとかこらえながら経緯を彼らに説明した。
「子供たちが助からなかった。私の失態だ」
だけどあれは誰のせいでもなくヘイスという男が悪かった。こんなのは言うまでもないことだけど、自分を攻め続けるレイの姿を見ているとソフィーは思わずそう言いそうになった。しかし騎士はなだめるように彼女を諭す。
「私たちにもその責任があります。いいですかレイさん、まずはその男を追い詰めましょう。このことを考えるのはそれからでも間に合いますから」
さっきまで沈みっぱなしだった空気が少しだけ軽くなって立ち止まっていたボートは廊下を歩き始める。ソフィーもそれに続くとレイ達も遅れて廊下に向かう。
「先に行くぞ」
彼女達に子供たちを救うという使命があるように、二人にもライナを助けるという目的がある。早くしないと子供たちのように取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。そう思うと自然と足取りは早くなった。
薄暗い廊下の奥、鎌を持った少女がついてきているとも知らずに。