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リスト『愛の夢』から

「こちらにどうぞ」と通された場所で、着替えをすることになった。緋月たちの服装はカジュアルな服装であるため、ホテルのラウンジでピアノを弾くには、似つかわしくない。


「衣装に着替えると、初めて緋月を見たときにことを思い出す」

「……それっていくつのときの話?」


 蝶ネクタイの位置を鏡で直していると、横に光希が近寄ってきて直してくれる。「ほいっ、いい感じ」と光希が笑うので、緋月はお礼をいう。そのまま離れていく光希を見つめているとクリっと振り向く。


「たしか、4歳とか5歳とか……? 緋月はいつデビューだった?」

「……4歳」

「じゃあ、そのときかなぁ? 衣装に着られているって笑ってたらさ? 鍵盤に指を置いただけで雰囲気が変わって、聞いたこともないほどの音で……もう、それだけで、世界が変わった」

「……もしかしなくても、ピアノ専攻だった?」

「ピアノもしてたが正解。緋月の演奏を聞いて、無理だって思って辞めた。元々、ピアノが好きじゃなかったし」


 強がりともとれる光希の笑いに緋月は苦笑いだけして、部屋から出た。光希もジャケットだけ羽織った。一緒にピアノの方へ向かうと、未だ疎らな客席からの視線を感じた。椅子にかけると、自然と集中していく緋月は、周りの雑音が聞こえなくなった。


「今日のあなたは素敵な婦人だ。大事に大事にされてきたんだね。あなたにぴったりの曲を贈るよ」


 鍵盤を一撫ですると、老婦人のようなピアノが、「楽しみだわ」と微笑んでいるようだ。一音を確かめるところから始める。今日は試しが出来なかったので、本番だ。


 まずは、ゆったりめの曲から始めよう。


 食事の邪魔にならないような曲を選択していく。ホテル側から提示されている条件に合う音楽は、どれもゆったりした優しい音楽ばかりだ。その中に今日のために用意した曲も入れていく。

 リストの『愛の夢』。この曲を五曲目に入れる。


 あぁ、今すごくいいな。


 感情が内側から込み上げてくるものがあった。初めての感覚に戸惑いを感じたが、心地いいとも緋月は感じた。どうしてかわからない、ふとした瞬間に麗羅の顔が思い浮かんだ。その瞬間に音が一段と深くなっていく。


 ピアノを弾き終えたとき、今までおしゃべりやディナーに夢中になっていたお客たちがこちらを見ていたことに驚いた。その中には、涙を流している人すらいた。


「……お、おい。緋月」

「あっ、えっと……ダメだったってこと?」

「いや、かなり良かったんだけど?」


 戸惑いながら周りを見渡すと、一人の老紳士が拍手を始めた。パチパチ……とした拍手がだんだん他の人にも広がっていく。緋月は周りを見渡していくと、たくさんのお客たちが拍手をしてくれた。その中で、一人の女性が近づいてくる。ハンカチを握っている彼女を見ると、目が赤い。


「あの……」

「えっと、はい。あの、何か?」

「とても素晴らしかったです。私、今日……約束をすっぽかされちゃって……落ち込んでいたんですけど、あなたのピアノが聞けてよかったわ」


 少し年上の彼女は、目元を少し擦ったあと、手を差し出してくる。握手を求められたのだと、差し出された手を握り返した。


「私、歌手を目指しているの。伊織よ。また、会えると嬉しいわ」

「僕は、南条緋月。音大の学生です」

「そう。また、どこかで緋月くんとは会えそうな気がするわ。今日は素敵な演奏をありがとう。もう少し、あなたの演奏を聞いていたいけど、時間がきたわ。また、どこかで」


 そういって、伊織は去っていく。緋月はその背中を見送っていた。どこかで見たことがあるような彼女のことを思い出しそうで思い出せないもどかしさで呆然とした。


「よぉよぉ、緋月さんよぉ? あの美人さんとは知り合い?」

「いや、知らない。僕らより年上なようだけど……会ったこと、あったかなぁ?」

「まぁ、音楽で繋がっているようだし、どこかですれ違ったことくらいあったかもなぁ。俺はともかく……」

「南条だからな。さぁ、続きを弾こうか」

「あぁ、そうだな。それより、さっきのリスト、良かった」


 光希が褒めてくれたこと、伊織にもお客にも好評だったことが嬉しかった。


 大学の復学まであと1週間。指も以前のようにとはいかずとも、随分動きやすくなった。


 この分なら、復学も可能だろう。光希と一緒に日本へ帰国も考えたけど、このまま僕のことを知らないこの国で生活していくのも悪くない。


 褒められたことで少し気が大きくなっていたのかもしれないが、そのあとの演奏もとてもよくできたと緋月は手応えを感じていた。ホテルのオーナーも聞いていたようで、「また、来てくれ」と一言残して言ってくれる。


「なんか、緋月ばっかり、いい思いしてないか?」

「そうでもないさ。光希がいなかったら、こんなふうにピアノを弾くことは出来なかったし」

「……あの、ヒヅキさんですか?」


 声をかけられて振り返ったところには、一人の女性が立っていた。その女性は、肌が黒かった。流暢に話す言葉が日本語だったので、とても印象的でもあった。


「そうですが、あなたは?」

「響のルームメイトです」


 そう名乗った彼女は、今日のピアノと引き合わせてくれた人だと知った。

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