さっそく
「いい音ですね?」
「ストリートピアノって、誰かが管理しているのか、音の外れはないよね」
「緋月が当たってないだけだろ?」
「そうかも。まぁ、何はともあれ……さっそく、始めようか。準備して」
「はい」と響は背中からバイオリンケースを降ろして、中から本体を取り出した。使い込まれているが手入れもきちんとされていることがわかる艶を見て、思わず緋月も光希も口元が緩んでしまう。
「音もらえますか?」
「おぅけぃ!」
緋月は鍵盤の前に座り、言われた通り音を出すと、響もチューニングを始めた。どれくらいの速さで音を取るか……何も相談できていないが、始めるらしい。
……意外とせっかちなんだ? 麗羅って。
苦笑いをしながら、響の背中を見て呼吸を合わせる。最初の一音が重なった瞬間、ガチっと何かがはまったような音がする。それは、今弾いているカノンのメロディだけでなく、もっと他のもの。何とは言い表せないものが、ぴったりはまっただけでなく、ゆっくりゆっくり……静かに回り始めた。例えるなら、そう……歯車だ。
まるで、運命に導かれたとでもいうふうなしっかりしたものに驚きを隠せずにバイオリンの柔らかいカノンが耳に心地いい。その音につられるように、だんだんと聴衆も増えて行った。バイオリンがリードする、ピアノが下支えをする。役割を決めたわけではないのに、ピタリとそれぞれの役割が決まっていく。
ふいに響がこちらをチラリと見て微笑んだ。響もこのメロディの波が心地よいのだろう。
いつの間にか、リズムに揺れる響の背中を見ながら、緋月は微笑んでしまった。
長い黒髪が揺れる。そのしなやかな揺れを見ながら、響の織りなす世界にハマっていく。
……なんて心地いいんだろう?
緋月は初めて感じる音の温かみに驚いた。それは、紛れもなく響から感じるもので、さらには、緋月の弾くピアノからも感じる。
時折、響は振り返り微笑んでは、また、観客の方へと視線を向ける。
その響の視線を緋月は独占したくなった。
こっちを見て。
その願いはピアノの音と共に響へと伝わったのだろうか?
響はバイオリンを弾きながら、こちらへ向きを完全に変えてしまった。
最後の一音が終わりを告げたとき、緋月はこのモヤモヤした気持ちと温かい気持ちが何かわかった気がした。
……参ったな。響の虜だ。
緋月がため息をついたことをめざとく見ていたらしい響は詰め寄ってきた。緋月は俯いていたのだが、急にしゃがみ込み「演奏、ダメだった?」と心配気に覗き込んでくる。驚いた緋月は背もたれのない椅子から転げ落ちる。演奏に対して、拍手があったのに、今は笑い声が周囲に広がった。
「演奏は大丈夫だった。すごくよく弾けていたと思うよ?」
「本当?」
「あぁ、本当」
「それなら、なぜ、俯いたりため息をつくの? 緋月の演奏も最高だったのにーっ!!」
ちょっと拗ねたような響が頬を膨らませるので、「ちょっと戸惑っただけ」と小さく呟いた。
「何? 聞こえないっ!」
「あまりの上手だったから驚いただけ!」
響はビックリしたような表情をしたあと、目を細めて微笑んだ。
「それならよかった! 私じゃ、全然緋月のピアノに似つかわしくないかなって思って」
響は緋月に手を差し出して、起こしてくれる。椅子を元に戻すと他にも弾きたい人がいたらしく、場所を変えた。
「……どうして、そう思った?」
「えっ?」
「どうして似つかわしくないって思ったの? 僕は響のカノン、よかったと思うけど」
「それは、なんとなく。ほら、SNSでもバズった通りだから……その……」
「そんなことで? 僕はのびやかで、愛らしい……」
「愛らしい!!!!」
「変かなぁ?」と緋月は言葉を反芻する。その様子を響は見て、思い出したように光希の名前を呼んだ。
「……忘れてた」
「ほんとっ、忘れないでくれる? 二人で世界とか作らないでよ」
光希がため息をつきながら、さっき撮った映像を見せてくれた。
……光希にはそっちの才能もあるように思うよな。
素晴らしくカメラワークができている動画を見ながら、「愛らしい」をもう一度呟く。夢中になって聞いている二人には聞こえていなかったようだ。
「んー、ここの指の使い方が微妙なんだよね」
「届かないの?」
「うん、そうなの」
弦楽器特有の話だと思って、緋月は二人の話をぼんやり聞いていた。ピアノでも、指が届かないという話はたまにあることではあるのだが、その場合、指の水かきの部分を切開する人もいるとか。幸い、緋月の指はピアノを弾くために、持って生まれたような綺麗な指であった。
「光希って、手、おっきいね?」
響が光希の手を掴んで開く。手を合わせると、光希の手が響の手とひと関節くらい違う。無邪気にはしゃぐ響を見て、緋月も光希の反対側の手を掴んだ。
「あっ、おい。緋月!」
スマホを持っていた手を掴んだのと、突然の出来事に光希は驚いて抗議してくる。光希のスマホを奪い取りポケットに入れ、緋月も光希と手を合わせた。
身長の分だけ、光希の方が大きい手を見て舌打ちしたあと離す。
「な、なんだよ! 勝手に比べて舌打ちして」
「別に。僕は帰るよ」
「お、おいっ! 緋月!」
光希が持っていてくれたカバンをひったくるように待ち、その場を立ち去る。
モヤモヤした胸のうちだけを残して、緋月は足早にその場から逃げ去った。あとに残される二人の気まずさなんて気にもせず、家にむかった。