彼女の名は
声の方を見ると、あの日、声をかけてきた少女がこちらを見上げていた。緋月と光希に見られたことが怖かったのか、少女は少し後ずさりをした。
「……誰?」
訝しむ光希に、「例の子だよ」と耳打ちしてやると、さらに厳しい表情を彼女に向けている。
「あのさ? 誰だかわからないけど、緋月の動画……本人も知らないうちに使わないでくれる?」
「……いえ、許可は」
おそるおそる緋月を見上げる少女は、申し訳なさそうにしながらも悪いことをしたという雰囲気ではない。先に捲し立てそうな光希を止めることを考えた緋月。このままだと、険悪な雰囲気はさらに悪くなるだろう。
「許可は出したような出してないようなだからさ……」
「……すみません。私のアカウント、それほど見る人がいないから、それで……」
「だからって、やっていいことと悪いことがあるんじゃない?」
「だから、その、ずっと、探していたんです! 動画を辿って……あの、ヒヅキさんとおっしゃるのですよね?」
「えっ? あぁ、そう。緋月」
持っていたスマホをギュっと握り直して俯いた。次、何を言ってくるのか……少し緋月は考えていたら、彼女の背中にバイオリンケースがあることに気が付いた。
……この子も、音楽をする人か。なら、答えはひとつだ。
「バイ……」
「バイオリンとも、セッションしてくれませんか? それで、このアカウントはお譲りします!」
緋月がいおうと思っていたところ、先に言われてしまい、どうも格好がつかない。悩んだふりをしたあと、緋月はこう言うしかなかった。今、思い浮かぶ楽曲で彼女も音楽をしていれば、弾ける可能性を信じて。
「カノンは弾ける?」
「カノンですか?」
「そう。バイオリンとのセッションは、カノンでどうかな? 光希は撮ってくれるだろ?」
「はぁ? どういうこと?」
「そういうこと」
「……それなら、俺も入りたい!」
「ダメ。今回はね。次、合わせるときに入ればいいじゃないか」
光希を見つめると、渋々と言うふうに了承してくれる。彼女の方はどうだろうか? 見てみると、少し俯いた。髪が長い彼女の顔は隠れてしまい、表情まではわからない。少し待っていると、急に上を向いて、ニッと笑う。緋月は予想していなかったので、たじろいでしまった。
「わかりました! カノン、やりましょう! 実は日本にいたときに、何度か挑戦をしていたので、弾けないことはないと思うんですが……その、」
「上手く弾こうなんて思わなくていいよ」
「そうそう。緋月はリハビリ中だからね。まだ、本来の音には程遠いだろ?」
「……他人に言われると、ムカつくなぁ。まぁ、そうなんだけど」
光希に向かって苦笑いをしたあと、彼女にも同じような表情を向ける。信じられないと言う表情にさらに肩を竦めた。
「あんなに上手なのに?」
「上手ではないよ。君が聞いた日は、何年ぶりかにピアノに触れた日だったんだ。ねぇ? 光希」
「そうそう。だから、うまく弾こうなんて思わずに、ただ、緋月とのセッションを楽しむ。それが、君が緋月と一緒に弾く条件だ」
「……マネージャーみたいなこと言って……、ただの知り合いだから」
「ひ、緋月さん? 俺、君の友人。親友。アンダースタン?」
「そうだった? まぁ、何にしても時間がもったいない。早速、殴り合いといこうじゃないか」
「……殴り合いですか?」
きょとんとする彼女。音楽なのだ。調和という言葉がふさわしいはずなのに、緋月が不敵に笑った瞬間、彼女の表情も引き締まった。音楽家を目指す二人にとって、闘いでもあるのだと悟ったようだ。
「わかりました。それと……いつまでも、君ではさすがに。私の名前は高月響です」
「よろしく、響。僕は、南条緋月で、こっちが……」
「藤谷光希」
三人は今日の目的地である大きな駅の中にあるピアノを目指した。日本人が異国の地で偶然揃うことに正直驚いている。ただ、緋月の胸は、少しだけ浮かれていた。
あの日から、光希とのセッションは数えきれないほどした。いろんなジャンルの音楽を弾き、それは楽しい時間となった。それと同時に、他の人とも合わせてみたいという欲も出てきた。
日本にいた頃には考えもしなかったことだ。ただひたすらにピアノと向き合うだけの時間。こんな音楽を楽しむという体験することすらなかった。
中には、伴奏を頼まれたこともあったが、それもコンテスト用の伴奏だったので、楽しむ余裕はなかった。ことごとく、緋月とペアを組んだ者たちは、緋月の圧倒的な音に喰われて、コンテストでは結果を残せずにいたのだが、それは、緋月本人は知らぬこと。引き立て役としての伴奏なので、8割程度の仕上がりで臨んでいたコンテストでも、正直、相手役が勝手に自滅していくのを何度も目の当たりにして、伴奏も受けないことにしていたので、今の事実は、夢ではないのかと少し考えていた。
目の前を歩く光希と響は、さっきまで諍いをしていたとは思えないほど、仲が良くなっている。連絡先を交換しているようで、笑いあっていた。
「さぁ、楽しい音楽の始まり……かな?」
見えてきたストリートピアノは、弾く手がおらず、静かに待っていた。カフェのピアノが貴婦人なら、ここのピアノは高級娼婦のような佇まいだ。
気に入った相手にしか、望んだ音は奏でてあげないと、色香たっぷりに緋月を誘う。その誘いに乗ったふりをしながら、最高の音を引き出そうと、鍵盤のラを人差し指で鳴らすと、高級娼婦はご機嫌なようだ。駅に響き渡るラの音を聞いた人々は、その音の発信源を探し始めたようだった。