音楽って、楽しいんだな
「よし、いいだろう。あとは編集をして、SNSにあげるだけだが、アカウントはあるか?」
「俺はあるけど、緋月は?」
「ない」
「なら、作ろう。今後、活動をしていくなら必要だろうし」
「活動? 僕はしないけど?」
店主の言葉に緋月はきょとんとして答えた。今日だけ、光希とのセッションをするつもりできたから、二人の驚きようは反応に困った。
「えっ? 続けないの?」
「光希とのセッションのためだけに連れてこられたと思ってたから。それに……」
「大学への復学を考えているなら、続けようぜ? 俺も今日だけじゃなくて、また、緋月と一緒にやりたいし」
「……それは」
「今日答えを出さなくていいんじゃないか? 久々にピアノが弾けた。それだけでも、ヒヅキにとっては前進の日だろう?」
店主は笑いかけてくれるので緋月は頷き、SNSの話はそこで途切れる。
いつか、そういうのに興味がでたら、やればいいんだと光希が小さく呟いたが、内心はガッカリしているのだろう。
「それで? 今日の昼は何を弾いてくれるんだ?」
店主の質問に光希が答えれば、なるほどと頷いた。先ほど一曲を披露したが、気に入ってくれたらしい。
「じゃあ、頼むよ?」
「わかりました!」
光希は愛想良く請負い、練習を再開する。よほど緋月と光希の相性がいいのか、適当に鳴らしている音が、メロディへと変わっていく。
「合わせるの上手いな?」
「そうでもない。必死。緋月の音は、それこそ耳にタコができるくらい、小学生の頃から聞いてきたけど、何? 新しい緋月出してくれちゃってるの? ヤバいって。本当」
背もたれにもたれかかった光希は、上向きに大きく息を吐いた。その大きさは、演奏に対するプレッシャーのように感じ、緋月は首を傾げる。
「そんなに意気込まなくていいんじゃない? 僕はもう、何年も弾けていなかったんだし、指も動かないし、割とデタラメな感じで弾いてるから。やっぱり、光希は留学生に選ばれただけあって、上手いよ。音が逃げていかない」
「ふぅ、ありがとう。褒め言葉にとっておくよ。ずっと憧れていた緋月から褒めてもらえるなら、光栄なことだから」
椅子に座り直す光希は、もう一度息を吐いた。整えるためだろう。
それを緋月がこっそり見る。
「オリジナルを作ろうとか思ったことはないの?」
「オリジナルはないかなぁ? 平凡な音になるから作れない。昔、ちょっと手を出したことはあるけど……んー、イマイチだったんだよ」
「どんな曲?」
「…………聞く?」
自信なさげに緋月は問いかけた。光希は『聞きたい』と言ってくれると予想して。ズルいと思いながら、緋月はピアノに手をかける。
「なるほど、なるほど。緋月くんは、誰かに聞いて欲しかったんだ。映えあるその栄光に俺がなれるのか。悪くはない! じゃあ、よろしく」
「いいよ、別に聞いてくれなくても」
「誰が聞かないなんて言った? 聞くに決まってる!」
光希の目は輝き、おもちゃを与えられる前の子どものようだった。そんな光希を見て、緋月は笑ってしまう。
……ピアノを弾く楽しさなんて、何年振りだろう? もし、こんなふうに思える日がもっと前にあったら……。
緋月は唇を一瞬噛み、息を吐いた。「もし」なんてことはありえないことを誰よりも知っているのは、緋月自身だ。今、楽しいと思えるのも、こうして光希にこの場所に連れてきてもらったからだし、今日、留年の通知を見たとして、光希に出会わなければ、家に戻って弾けないピアノの前に座りっぱなしだっただろう。
先ほどの月光とは違い、自分が作った一曲は、当時の思いを色濃く音に反映している。永遠に負けたくないという嫉妬心からくる重たい一音に心が塞ぎ込みそうになる。
「これってさ?」
「ん?」
「完成してるの?」
「まだ、最後の部分が終わってない」
「そっか」と呟き、光希は音を取るように、足をリズミカルに打ち鳴らす。
その音は軽やかで、緋月の音の方が重すぎるくらいであった。
「なぁ、これを少しジャズ風にアレンジできない?」
「ジャズ風?」
「やってみて」
光希に言われて、渋々弾き直してみた。すると思いもよらないくらい軽やかになって聞き馴染みがいい。少し勢いをつけるように弾いていくと、チェロの落ち着いた音が下音を整えていく。
「おっ? いんじゃねぇ?」
「……光希も耳コピできるわけ?」
「いや、今、適当に弾いてる。楽譜あれば、それなりにアレンジいけるけど……」
「そんなもん? 難しいことはしてないから、そのままでいこうか。お昼はこの曲も追加でいい?」
「そうだな。それで。あとは、適当に緋月が弾いて、合わせる……それで、」
「いや、光希が曲は選んで。僕が合わせるから」
そう言って、二人で3時間分のオーダーを考えていく。緋月にしてみれば、誰かと協力して音楽を作ることなんて初めての経験で、それが、こんなにも楽しいことなのだということを知った。
緋月はずっとピアノと向き合ってきた。孤独で寂しくて誰の手助けもなかった。そこに降ってきた天才への焦燥に、音楽への熱はすっかり冷めて忘れてしまっていた。
今日、ピアノを弾けた。その事実が、緋月自身と音楽を向き合わせるきっかけとなった。
「音楽って、楽しいんだな」
「んだよ? そんなことも忘れていたのか?」
光希のため息に緋月は苦笑いしながら、頷いた。暗く辛いうえに苦しかった日々から、明るいところへ一歩、踏み出せた気がした緋月の心は、空っぽから少しずつ新しい世界へと向かい始めたのだった。