準備は?
「そろそろ時間だ」
「あっという間だね……。3人で過ごすと、時間なんて、いくらあっても足りないよ……」
項垂れる響の頭を小突く光希は笑いながら、響の言葉を言い直した。
「緋月と過ごす時間は、いくらあっても足りない、だろ?」
イタズラをしたような表情の光希を響は思い切り叩くと、「いたたた……」と叩かれた腕をわざとらしく撫でている。そんな2人のやり取りを見ていた緋月は、小さくため息をついて、ベンチから立ち上がった。
「もう、行くのか?」
「集合時間があるし、あんまりギリギリに行くと、ほら……」
緋月は上を指さすと、そこには、カブレラをはじめ、オーケストラのメンバーがニヤニヤしなが、成り行きを見守っていた。光希も感じとったようで、緋月に早く行けと手を振った。
「響」
「ん?」
「最高の演奏を聴いていってくれ」
「わかったよ!!」
「俺には?」
「光希も」
「とってつけたような感じだけど? まぁ、いっか」
不貞腐れる光希を横目に緋月は手を振り2人から離れて、カブレラたちの元へ行くと、「もういいの?」なんて、わざとらしくサーヤが声をかけてきた。
「ねぇねぇ、ひーちゃん?」
「ひーちゃん?」
「どっちが本命?」
「何言っているんだか…………」
言葉を濁した緋月にカブレラ隊は興味津々で追い討ちをかけようとした。待ったをかけたのは、意外にもカブレラで、演奏本番に意識が切り替わったようだ。
「そんなに睨まなくても。カブレラ、私たちは私たちなりにここにいる意味があるんだから。ふざけてばかりじゃないことくらい、わかっているでしょ?」
ふざけ合っていたカブレラ隊の空気感が一気に引き締まった。少数精鋭のこのオーケストラは、この文化祭での注目度も高い。ここから、プロの世界へ旅立つものたちがいるくらいなのだから、遊びではないことはわかる。
「わかっているなら、問題はない。緋月をこのオケに迎え、新しい試みだからこそ、いつも以上に気をつけないといけない。緋月もわかっているね?」
カブレラに頷き、気を引き締める。緋月は、まだ、よちよちと歩き方を思い出したばかりだ。足を引っ張るなら、緋月以外いないとさえ思っている。
「まぁ、気合いの空回りほど、情けない結果はないわけだから、気合すぎるなよ?」
背中を数回、トントンと叩かれて、緋月は返事をした。光希と先に舞台にたったおかげか、気持ちはだいぶ楽だと感じる。
完璧な演奏を目指すことは、悪いことじゃない。ただ、完璧だけを求めるあまり、見落としてはならないものがあるはずだ。
「カブレラ?」
「なんだい? 僕らの指揮者」
「……何?」
「そっちこそ。僕らもそこそこ長く濃い時間を過ごしたと思うんだけど、心を許してる人といるときとは、やっぱり、表情が違うな」
「……はいはい、妬かない、妬かない。カブレラちゃんは、とってもハンサムですからね?」
会話の途中で、割って入ってきたサーヤはそのまま後ろからカブレラに抱きつき、頬にキスをする。サーヤの行動を緋月が唖然と見ていたが、揶揄われたカブレラは声を荒げる。
「サーヤ!」
「ふふっ、緋月に本命がいたからって、別に気にしないでしょ? あなたは、世界一のヴァイオリストよ!」
「サーヤ、揶揄うのはそれくらいにしておけよ」
「グレンもそう思っているのに」
「井の中の蛙ってこともあるだろ? 世界中に、どれだけのヴァイオリニストがいると思っているんだ」
サーヤとグレンが、口論になりそうになったとき、カブレラが笑い始める。緋月は、笑うカブレラを見ていた。
どこにいても目をひくスタイルに、指先まで綺麗に手入れされている手に、視線を移すと、少し長い毛や耳にかける。耳にならなかったのか、パラパラと落ちた分をもう一度耳にかけ直した。
美青年は、カブレラ隊を優しく見つめながら優しく微笑んだ。




