……言うな。恥ずかしい
「もう、すでに眠い」
緋月は大欠伸をしながら、流れた涙を拭いた。パブの店主の好意で、新調したタキシードを触りながらとても生地がいいことに気がついた。
「これ、既製品じゃないよね?」
「俺らのために奮発してくれたらしい。お礼は、数日のタダ働きでいいってさ」
「僕らはいいけど、割に合わないだろ……?」
ステージ袖で出番を待つ緋月は、昨夜のことを思い出した。光希に呼び出され、一緒にパブへと向かった。
中に入ると、夜の営業らしく、お酒も入り店は賑わいをみせる。
何回か、夜の営業時間にもピアノを弾かせてもらったことがあるが、緋月はこの賑わいが好きだった。生きてきた中で、これほど騒がしい時間はなかったから、その喧騒がとても心地よいものだと知らなかったのだ。
「一着くらいいいものを持っていても、損はないだろ? 有名になったら、俺の店を宣伝してくれたらいいから」
「でも、僕らだって持っています」
「それもそうだ! 留学までしてるから、それなりの家の子たちだな。その、悪かった。やっぱり、いい。着なくて!」
「待ってください! いただいてもいいなら、僕たちにください。僕にとって、この場所が再出発の場所です。背中を押してもらえたようで……その、とても嬉しいです」
「俺も! あるにはあるけど、この場所は特別だから」
二人揃いのタキシードを着て、ステージに向かった。スポットライトが眩しく、太陽のようだが、本物の太陽には勝てそうにない。緋月も光希も椅子の調整をして座り直した。音楽の街だけあって、大学外からの客も多いが、先ほどより客入りが多いように感じた。光希が、こちらを向き、『俺らを見に来ている客で増えた』と言っている。静かなこの空間に言葉はいらないが、『僕ら』をわざわざ見に来てくれたことで気合を入れるつもりなのだろう。
緋月は目を瞑り上を向く。儀式ではないが、ステージに上がったとき、無意識にしてしまっているらしい。緋月の儀式めいた様子を見ていた光希は、ただ待っていた。緋月を引っ張り上げたという自信があったのだが、この場で緋月を見つめて思ったことは、自身も引っ張り上げられていたということだ。自然と笑みがこぼれ、緋月と目があった瞬間、頷き合った。ここからは、いつもの二人だ。
全て決まったとおりに、メロディーが進んでいく。光希は、緋月の音を一音一音聞いて、自分が歩む道を見失っていたと感じた。いち早く、気が付いてくれたのは、緋月であり、そのための今日だった。
弾き終わったあとの静寂。一人の少女が、大声で叫ぶ。
「ブラボー! 緋月! ブラボー! 光希!」
大きな拍手と一緒に立ち上がって、客席から叫んでいたのは、響だ。その瞬間、緋月は立ち上がりお辞儀をしたかと思ったら、ステージから飛び降りて、響の元へと駆けていく。観客の喝采の拍手の中、緋月は響を抱きしめた。光希は、その光景を眩しく思いながら、自身も駆けていけなかったことを相棒であるチェロのせいにする。
「響、大丈夫なのか?」
「大丈夫だから、来ているのでしょ? 招待もしてもらったし!」
ニコリと笑う響は少し痩せたように思えるが、いつもの響にも見えた。緋月はホッとしながらも、会えた喜びで胸がいっぱいになる。
「……それより、さすがに恥ずかしいかな?」
ステージから飛び降りて、響の元へ駆けてきたことを思い出し、緋月も急に口をパクパクさせながら顔を赤らめていく。恥ずかしさでいっぱいになり、響の手を取って会場から出ることにした。
「びっくりしちゃったよ。緋月くんが、まさか……ねぇ? 私としては、ちょっと恥ずかしかったけど……嬉しいよ」
「……言うな。恥ずかしい」
響を連れ、ホールのベンチに落ち着くと、隣に座る。久しぶりに会う響は変わらず、緋月と光希の演奏を絶賛した。病院にいる間も、SNSでずっと追いかけていたことを話してくれ、最近完成したばかりの曲をいたく気に入ったようだ。
「そんに曲が気に入ったのなら、いつか響のために1曲捧げよう」
「捧げるって……」
クスクス笑いながらも、響は夢見るように曲調を話し始めた。嬉しいのか、まだ1音も出来ていない曲に想いを馳せている。
「ヴァイオリンも弾ける曲にしてね?」
「あぁ、もちろんだ。ヴァイオリンとピアノ……の曲を……」
「ありがとう……。あぁ! そうだ、光希くんを呼ばないと。緋月くん、一人で走ってきちゃったから!」
二人でいる時間を名残惜しく感じた緋月であったが、スマホを取り出し、光希を呼び出す。すっかり響しか頭になかったことを申し訳なく思いながら、何度目かのコールで出てくれた。
チェロを片付けたあと、二人がいるであろう客席を覗くとすでに二人はいなかった。廊下を探して歩いていると、スマホが鳴る。緋月からで、電話に出ると、場所を伝えてくれた。行ってもいいのか迷ったが、光希は二人が待っている場所へと足早に向かう。
「響!」
「光希くん!」
「もう、大丈夫なのか?」
「もちろんだよ! 演奏、とてもよかった!」
「それはどうも。それにしたって……」
二人を見ながら、「邪魔をしたな」と光希が呟くと、二人の声が重なる。
「光希がいないと」
「光希くんがいなかったら」
重なった言葉を聞いて、三人で笑う。こんな時間を過ごしたのは久しぶりで、緋月の次のステージ準備まで、響にこの数か月の話を緋月と光希はたくさん話した。外にでることができなかった響にとって、その話がどれほど輝いていたかは、二人は知る由もなかった。




