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久しぶりの鍵盤

 光希に連れられてきたのは、小さなカフェだった。夜はお酒を扱うカフェバーに変わるような場所だ。光希は緋月が逃げないようにと手を繋いでいる。それもがっちり恋人繋ぎ。嫌悪感を感じ、緋月は眉を顰めているが、ここは海外だけあって、誰も男同士が手を繋いで歩いている……もとい引きずられていることに無関心だった。


「コウキ!」

「マスター! 連れてきたよ! 俺がずっと前から言ってた子」

「ほぅ、なかなかのイケメンだな? もう、いい仲なのか?」


 繋いだ手を指差しながら、店主はからかう。わざと見えるように光希が上へ手をやった。


「ちょ、ちょっと! 光希!」


 背の高い光希に引っ張られ、緋月は背伸びをせざるえない。緋月はめくれかかった服の裾を引っ張りながら、ヘラっとしている光希を睨んだ。


「あぁ、悪い。つい嬉しくて。マスター、そういうんじゃないから。ピアノとさ?」

「わかってるさ。みなまで言うな。まだ、店を開ける前だから、少し弾いてみるといい。ピアノはモノによって音が違うから。ぼっちゃんには、なかなか気難しいかもしれないがね?」


 マスターがパチンとウィンクをしてくるので、緋月は苦笑いをしながら、店の1番奥にあるピアノを見た。

 日の当たらない場所に置かれたそれは、音を奏でるモノを静かに待っている。


「……グランドピアノ」

「俺の持ち物の中で、店の次に高級品だ。大事に扱えよ?」

「もちろんです」


 足取りは重いのに、ピアノを緋月が心から欲しているためまた、吸い寄せられるようにふらふらとピアノに近寄っていく。弾けないかもしれないとは思わず、ただ、ただ、ピアノの佇まいに惹かれてしまった。


「綺麗な貴婦人だ」

「ぼっちゃんはなかなかみる目があるな。弾いてみてくれ。さらに惚れ込む」


 店主に言われるがままピアノの前に立ち、鍵盤を見据える緋月。手が鍵盤に触れようとした瞬間、弟永遠からの罵倒された言葉が脳裏によぎった。


「兄貴なんて、辞めてしまえば? ピアノにも音楽にも好かれていない。今のままじゃ、何者にもなれやしない」


 声変わり前の甲高い声で、緋月が見えなくなるまで永遠は罵った。

 ぎゅっと目を瞑る緋月。永遠の幻影を振り払うように、乱暴に鍵盤へ指を叩きつけた。


『ピアノソナタ第14番嬰ハ短調作品27-2』。

 通称『月光』。


 ベートーヴェンの作曲中、1番好きな曲であった。コンクールで初めて金賞を取ったのもこの曲であったことを鮮明に覚えている。

 緋月は鍵盤を乱暴に指を滑らせていく。もう、何年も弾いていないのだ。指は固まり、何音も楽譜の流れから飛んでいった。

 とてもじゃないが、まともな演奏ではない。音は乱れ、楽譜から1音が飛んでいく。情緒の欠片もない『月光』に緋月は落胆を隠せない。

 それとは別に、鍵盤を乱暴に滑っていく自身の動かない手が不思議で仕方がない。


「くそっ!」


 光希が聞いたら、この滑稽な『月光』がわかるだろう。少し耳の肥えたものなら、緋月がピアノを日常的に弾いていないことを勘づく。


「あぁ! もう!」


 悪態をつきながら、ひたすら弾き続け、最後の一音が弾き終えたとき、涙が溢れた。

 最悪なできだった。

 最悪どころではない。緋月が聞いてきた音の中で、1番最低の『月光』だったのだ。


「素晴らしかったよ!」


 店主が何気なく声をかけてくれたが、緋月にとって納得のいくできから遠すぎて、店主からの褒め言葉を素直に受け取ることができなかった。


「……本当にそう思いますか?」


 俯いた緋月が搾り出すように出た言葉に、店主は近寄ってきて肩をトンと軽く叩いた。


「君が思うようなものが弾けなくて、涙しているのはわかるよ。私も君たちくらいのときは、同じように音楽を学ぶために大学へ通っていたから……」


 ピアノを撫で、当時を思い出すかのように懐かしそうに目を細めた。


「私には才能がなくてね。才能を努力で補おうとどれだけ弾き込んだかわからない。寝食を忘れてピアノを無心で弾いていた。あるとき、ふと耳に別のピアノの音が入ってきたんだ。まさしく月明かりが綺麗な夜に皮肉かと思った『月光』。いつしか、ピアノを弾く自身の指が止まり、聴き入っていたことに気がついた。とても綺麗だった。完成された『月光』に私は酔いしれた。もう、それ以降、ピアノが弾けなくなってしまったんだ」

「そんな、こと……あるんですか?」

「あるさ。それが、一目惚れならぬ一聞き惚れとでもいうのかな?」


 笑う店主に目を丸くして見ていた。辛い思い出と幸福を兼ねているその表情は見たことがない。


「ウチの亡くなった奥さんが弾いた『月光』はこの世の全てのピアニストにも負けないほど、素敵なものだったんだよ」

「奥さん?」

「そう。今は空から見守ってくれてる。彼女が残したこのピアノは、宝物なんだ」


 店主がこのグランドピアノを緋月が褒めたとき、嬉しそうにしていた理由がわかった。このピアノが店主の奥さんとの思い出なのだろう。


「マスター、弾かせてくれてありがとう」


 お礼を込めて頭をさげると、また、涙が出てくる。どんな形でもピアノが弾けたこと、店主からの言葉に込み上げてきたのだ。


「昼も頼めるか? 光希と一緒に」


 光希は元々そのつもりで来ていた。僕はどうしたいのか? と自問自答する緋月の両肩を光希と店主がそれぞれ叩いてくる。


「難しいことなんて考えなくていい」

「ただ、思うままに、ピアノを弾いてくれたらいいだけだ」


 光希と店主に後押しをされた緋月にさらに笑いかける店主。


「やらずに後悔するより、失敗したとしてもやってみて次に繋がる経験を得られる方が重要だ! 光希たちはまだ若い。たくさん経験を積みなさい。成功も挫折もたくさんたくさん。その積み重ねが、君たちの一音へと返っていき、唯一無二の付加価値となる。素敵な音楽を二人には期待しているよ」


 満足そうな店主を緋月は見つめたあと、光希に視線をやると、微笑みながら大きく頷くのだった。

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