光と希望、世界に僕の音を響かせるきっかけ
光希からメッセージを受け取り、取ってくれた部屋に入る。ピアノが1台あるが、他には何もなかった。光希はもう少し時間がかかると言っていたので、先に指先を温めることにした。
……何がいいかなぁ? エリーゼのために? 子犬のワルツ? くるみ割りとかも面白いか。
最近、手あたり次第、本屋で子ども向けのバイエルを立ち読みしている。楽譜を見なくても弾ける暗譜済みのものばかりだが、懐かしさから弾いてみることにした。
モーツアルトのメヌエット……、これにしよう。
早速ピアノの準備をして、席に座る。鍵盤に触れたいと全身が言っているようで、急いで用意をしていることに緋月は驚きと笑いが込み上げてくる。まだ、ピアノを弾けるようになって、1年も経っていないのに、こんな気持ちになるのは、意外でしかなかった。
「ピアノから逃げて立って、信じられねぇかも……こんなに、ピアノを求めているって、不思議な気持ちだ」
用意を終え、鍵盤に手を添える。もちろん、暗譜済みの曲で、楽譜も持ち合わせていない。目を閉じ、音を感じるために、ラの音を出した。
……少し重めの鍵盤だな。でも、それくらいの方が弾きやすい。さしずめ……、やめておこう。
次の瞬間には、頭の中の楽譜をなぞるように、音が連なっていく。何度弾いたかわからない頃、扉が開いていることに気が付いた。光希が来たのかと目を開けてそちらを見ると、そこにいたのは弟の『南条永遠』だった。皮肉そうに笑う弟を見た瞬間、背中が硬直するようだった。
「緋月兄さん、ピアノがちゃんと弾けるようになったんだね! 弟の僕も嬉しいよ!」
無邪気そうに笑いながら駆け寄ってくる永遠に、緋月の顔は強張る。ただ、抱き着いてきた永遠を突き飛ばすこともできず、ハグを受け入れるしかなかった。
「……どうして、ここへ?」
「もうすぐコンテストがあるだろう? それに出場するために来たんだけど、兄さんが通っている大学を見てみたくなってね。ちょっと寄ってもらったんだよ」
「……そう。大学の案内は?」
「あぁ、それなら気にしなくていいよ。副学長だっけ? が、案内してくれてる。懐かしい音が聞こえた気がしたから、飛んできたんだよ」
この部屋は防音であるはずだ。聞こえるわけがないのに、聞こえたという永遠に震えが止まらない。
「どうしたの? 震えているよ?」
「大丈夫。ちょっと風邪気味で。離れた方がいい」
緋月が、離れようとしたとき、「遅くなった!」と、光希が部屋に入ってくる。緋月たちの状況を見て、部屋を出ようとする光希を呼び止めた。
「紹介するよ。弟の『永遠』だ」
「あぁ、あの。初めまして。チェロ専攻の藤谷光希です。緋月……お兄さんとは、留学仲間だから、よろしく」
「あぁ、あの動画の人だよね。兄をくだらないことに巻き込まないでくれるかなぁ? 兄のピアノの音は神の祝福といってもいいくらい素晴らしいんだ。それを……」
「永遠! 光希に謝れ。僕は光希のおかげで、今を楽しんでいるんだから」
「何を言っているのかわからない。兄さんは、僕のために弾いてくれればいいんだよ」
狂気とも言える感情を向けてくる永遠に、緋月は笑顔で拒絶する。弾けなくなった緋月を引き上げてくれたのは、他でもない光希であり、響だった。この二人に請われて弾くことはあっても、永遠のための曲なんてない。
「光希に謝れないなら、もう、帰ってくれ。僕たちはこれから合わせるんだから、出て行って」
弟を部屋から追い出している緋月を光希は何も言わず見ていた。声をかけるには、二人の溝が深いように感じたからだ。聞いていた以上に緋月が永遠を拒んでいるその様子に驚いたというのもあるだろう。
完全に部屋から追い出し、二人きりになったあと、小さく緋月は息を吐いた。
「大丈夫か?」
「あぁ、いつものことだから。ごめんな。こんなとこに来るとは思わなくて……」
「いや、それはいいんだけど……俺が、足を引っ張っているよな」
「何でそうなるんだよ。僕は光希に出会ったおかげで、こうしてピアノが弾けるようになったのに、何を悲観的なこと言っているんだよ?」
「いや、でも……」
「それ以上は言わない。僕がどう思っているか、光希と響に出会ったことで、僕が何を見たか……それだけを信じてほしいんだけど?」
緋月は、笑いかけるが、光希の表情は、以前硬いままだった。そんな表情をほぐしたくて、緋月は思い浮かんだ1曲を提案する。チェロ弾きの光希なら、もちろん知っている曲だろう。
「バッハ無伴奏チェロ組曲第1番をやらないか?」
「プレリュード?」
「そう。これ、チェロで聞くと不思議と落ち着くんだよな。僕のために弾いて? なんてね」
「あぁ、緋月のために、弾こう。準備をするから」
緋月は、椅子に座りなおした。光希の準備が整うのを待っていると、ふともう一曲思い浮かべたものがある。
「なぁ、エトピリカもどう?」
「一曲だけじゃないのかよ?
「そう思ったんだけど……今、降ってきた」
緋月が天井を見上げているので、光希も視線で追うが、当然ながら、天井しかない。たまに不思議なことをいう緋月に、「わかった」と返事をする光希。
「なんか、不思議だよな。光希といるとさ、ピアノが弾きたい! ってなるんだよ。何か、発してるわけ?」
「そんなことあるか!」
「僕にとって、光希ってさ、まさに字のごとくだよな。シャインホープ!」
「からかってる?」
「ちょっとだけな。でも、本当のことだよ。僕にとって、光希は光と希望。響は世界に僕の音を響かせるきっかけ。二人がいなければ、まだ、ここにはいられなかった」「この練習風景も、ネットに流そうか」
「もう、撮ってるじゃん!」
スマホのカメラを向けた光希の心のうちは、今の緋月の言葉を将来の自分へと響へ残したかった言葉であった。




