新たな挑戦
「おや? 珍しいものがいるじゃないか?」
緋月は、講堂の入り口付近で、講義の準備をしていると、声をかけられた。というより、馬鹿にされたが正解のようだ。
「今日からお世話になります、南条緋月です」
「あぁ、噂の? ピアノ科のやつが、オケなんてとってどうする? ましてや、俺が受け持つオケの規模は1番小さい」
目の前にいる講師は、悪人顔で緋月を見降ろしていた。元々が悪人顔なのだろう。そこに、日本では誰もが知る「ハリセン」なんて持っているから、なおのこと。おなじみの指揮棒ならまだしも、ハリセンを持っているあたり、謎であった。
「大きい小さいは関係ありません。ピアノ科ですので、オケと関わることは少ないでしょうが、将来、オケと共演できたらと」
「ほぅ、そんな高尚な考えが? で、一番小さい俺のオケ? なめてるのか?」
ハリセンで肩を叩きながら、ニヤニヤと笑う。そうすると、ますます悪人顔に見える講師をただただ見上げるしかなかった。
「まぁ、いっか。学長の勧めで来たんだろう?」
「えっ?」
「いたく、珍獣を気に入っていたからなぁ……」
「待ってください! 珍獣って……」
「お前のことだよ。一応、説明はしておいてやる。他のオケでは知らねぇが、このオケで年度末に発表会がある。それに参加できなかったら、講義を受けたとしても、単位はない。そんな覚悟があって、ここへ来たんだろう?」
「……単位ですか?」
「あぁ、単位だ。卒業できないと、困るからなぁ?」
「それでしたら、僕は留年しているので、構いませんよ。オケでピアノ、弾けるように努力します」
「ふんっ、なかなか根性があるなぁ」
嬉しそうにニヤニヤと笑うので、後ろに引いてしまいたくなったが、緋月は引かないでいた。引いたら、負けのような気がしたし、音楽の楽しさを知ってしまった今、向き合うと決めたのだ。今のままでは、決してピアノで大成できるとは思っていないので、なんでも吸収するつもりで、学長のアドバイスを受けることにした。
「せいぜい頑張るんだな、珍獣」
舞台上の指揮台の方へ歩いていく講師を見送る。緋月には、もう見向きもせず、いないものと扱っているようだ。まだ、誰も生徒が来ていないのだが、舞台に上がったところで、一礼をする講師。とても綺麗な所作を見つめていた。そのあと、指揮台の直前で止まり、ハリセンを脇に置いて、もう一度一礼をする。その後、指揮台の上に乗り、全体を見渡した。
まだ、誰もいないのだ。がらんとした座席と楽譜置きしかない舞台で、講師は腕をふっと上げ、指揮をとりはじめる。
「……何の真似だ? 曲はもちろんかかっていないし、オケのメンバーもいない」
緋月は不思議な光景をじっと見つめていた。体感時計で計測すると1曲分の指揮をしているのがわかる。
その気迫は、さっき緋月をからかっていた表情とは違う『音楽家』としての顔であった。
「……すごい」
滝のような汗をポケットから出したハンカチで拭って、指揮台から降りた。また、一礼をしたあと、緋月と目が合ったが、指揮者としての矜持なのか、強めな表情のままだった。
「まだ、いたのか? 珍獣」
「珍獣、珍獣とうるさいですよ? それにしても、見事な指揮でした」
「珍獣に指揮がわかるとはな……」
「わかりますよ。僕だって、指揮者と一緒にオケのコンサートに出たことはあります」
「それで? オケを振り回したか?」
「……そんなことはないと思いますが」
きつく睨んでくる講師に、それ以上は反論できない。もうずっと昔の記憶のことだ。今、思い出しても美化されている。子どもであったから、大人なオケの方が合わせてくれていたことは、明確である。
「ここには、指揮科の生徒もくる。コンマスもいる。そして、何より、俺が珍獣をこの舞台に上げることはない。さて、どうする?」
「……困りましたね。他の講義に変えてもいいんですが、断然、先生の元で、オケと合わせたピアノを弾きたくなりました。確か、オケのメンバーは選考会があると聞きました。それには、参加させてもらえるのですか?」
「あぁ、そうだな。それには参加させる。それに参加させなければ、不公平だからな。ただし、ピアノが入れる曲は選曲しない」
意地悪そうな表情をして、意地悪なことを言って、何が楽しいのかわからないが、それならそれで、考えがある。緋月は、選考会への参加さえできるのであれば、チャンスは少なくてもあるのだと希望を持つことにした。
「いいですよ! ピアノって楽器は、打楽器だ。パーカッションと同じ。主旋律を弾くこともできるが、伴奏も曲に沿う弾き方もある。それに、目指すなら、ピアノ指揮という方法もありますよ?」
「はっ、笑わせるな。ピアノ指揮は、指揮科でも、なかなか難しい難題だ。ピアノを弾くしか能のない珍獣にそんなこと……」
「珍獣だから、できるかもしれないじゃないですか? 僕、がぜん、やる気になりました! ピアノ指揮、目指してみます!」
直近の目標もなく、復学はしたものの、悩んでいたのだが、いい目標ができた。まず、指揮を勉強しないといけないし、専門で勉強しているヤツらに勝てるとは、誰も思っていないだろう。
オケの講義は、実技もあるので、2限講義であった。講義が終わったら、学務へ行って、指揮科の講義も取れないか交渉してみようと心に決めた。そんな緋月の決意を講師が内心嬉しく思っていることは、知らない。
緋月にとって、とてつもなく難しいことであることはわかっていたが、やると決めた以上、指揮科の講義が受けられなくても、独学でピアノ指揮で、このオケと合奏を必ずしてみせると、心のうちは燃え盛ってきた。
……こんな気持ちになるなんて。
自分でも思いがけない気持ちの変化に緋月は戸惑っている部分もあったが、挑戦したいと思えるほどの熱意が自分にもあったのかと嬉しくなった。
「せいぜい、がんばれや。俺は、特別扱いはしないからな。ピアノは、この舞台に上げることは、ない」
「わかっています。僕は、ここから先生が作り上げているオケを観察して、必ず、成し遂げてみせますよ!」
つい口角が上がってしまう緋月。
講師とにらみ合いをしていると、講義の時間に近づいてきたのか、生徒がそれぞれの楽器を持って集まり始めた。すでに1回目の選考会は済んでいるため、現段階でのそれぞれの席へと座っていく。僕はそれを見つめていた。逆に、舞台の上から、ピアノ科である僕を不思議そうに見る生徒たち。
講義が始まった瞬間から、僕の無茶な挑戦は始まったのであった。




