……君に贈ろう。
何故、僕は、ホールに置かれたピアノと向き合っているのだろう?
ホールの観客席には、たくさんの学生が緋月を見ていた。まるで、ピアノのリサイタルでも始まるかの如く、その光景を見つめる。
「南条くん、よく来てくれました」
突然、客席から立ち上がった人物が、緋月に呼びかけた。そちらを見れば、人好きそうな笑顔を浮かべた初老の男性が立っている。にっこりと嘘くさい笑顔に緋月も張り付けたような笑みを返す。どこかで見たことがあるような気がしたが、思い出せずにいた。
一見、人当たりのよさそうに感じるが、視線のせいだろう。鋭い刺すような視線に、背筋が伸びる。
「南条くんが、復学をすると学務から聞いたのでね? 他のピアノ科の子たちにも、君の素晴らしい演奏を聴いてもらおうと思ってね!」
「……そうですか」
緋月はその言葉で思い出す。父に陶酔している教授がいると。まさにその人物が、緋月を試そうと、この場を用意したようだ。
僕の現状もしっているだろうに。わざわざ、恥をさらすようにと用意されたステージか。よっぽど、僕が憎いか父が憎いか……それとも、母が? どっちにしろ、迷惑な話だよな。
小さくため息をついたあと、その教授へ曲のリクエストを聞くことにした。
「それで、何を弾けばいいですか?」
緋月は、教授の柔らかい口調に飲み込まれないように微笑みながら。何かを企んでいる表情だったから、緋月も知らん顔を引き続きすることにした。
「そうだねぇ? もうすぐリストのコンクールがあるのは知っているかい?」
「まぁ、音楽をしていれば、コンクールの時期はわかります」
「それじゃあ、話しは早いね。リストの曲を頼もうか」
「わかりました。曲はなんでもいいですか?」
教授の頷くのを確認して、緋月は椅子に座り直す。コンサートのいで立ちからは程遠い恰好のデニムにTシャツで笑えてくる。
……どんなものをご所望かは知らないけど、リストなら。
何度か頷いたあと、鍵盤に手を置く。コンクールには程遠いので、小さく息を吐くのと同時にイメージをした。忘れてしまいたいと思っていたあの静寂な一瞬、埃がスポットライトで照らされて舞っている様子、最初の鍵盤を叩く瞬間の重さ……今とは比べられないほど、小さな僕の手が見えた。
思わず笑ってしまう。今は想い出の中にいる小さな僕に。
……君に贈ろう。小さな僕。まだ、未来に夢を見て、希望でキラキラしていた君に。成長して夢が見られなくなった僕からの『愛の夢』だ。
最近、練習していた曲を選択する。教授の期待を満たせたのかはわからないが、響やクリステルに喜んでもらえたあの夜のことを思い出し、幼かった僕へ聞かせるつもりで弾く。
最後の一音が終わった後、しばらくの無音。滴る汗をTシャツの袖で拭って立ち上がり、一礼した。
久しぶりのこんな環境のいい場所で弾いたピアノは、緋月自身の心にも響いた。あの夜以上の充足感に満足して、ステージ袖へと歩き始めた。客席では我を忘れたかのような無音が続いたかと思えば、拍手が鳴り響いた。その音を聞けば、まぁまぁの及第点だったのだろうと、緋月は満足だった。
ステージ袖の奥へ向かうと、息を切らした光希がいる。
「何?」
「……緋月が、あの有名な意地悪じいさんの餌食になっているって聞いて、とんできたんだけど?」
「そうだったんだ?」
「……なんか、心配して損した」
息を整えるために大きく息を吐く光希が、「ほら」とステージの方を指さす。ずっと聞こえている拍手のことを言っているのだろう。光希と頷きあうと、急に笑いがこみ上げてくる。クスクスと笑い始めていたが、いつの間にか大笑いだ。教授が意図して緋月の落ちた腕前を非難するために、集めた音大生が良いと判断したのだから、事の顛末としては、意趣返しが出来たのではないだろうか。
「……緋月って、本当に一ヶ月前までピアノ弾けなかったって本当?」
「なんだよ? 信じてないのか?」
「そうじゃないけどさ。今の拍手を聞けば、信じがたいんだよなぁ……。それで?」
「ん?」
「復学は叶いそう?」
「叶うんじゃない?」
「その心は?」と笑いながら光希がいうので、「一番奥の席に学長がいたから?」と小首を傾げてみると、「抜け目なさすぎ」と光希が肩を組んでくる。
「……そういえばさ?」
「ん?」
「授業はどうしたんだ? 今日、1限から講義あるって言ってなかったっけ?」
「……あっ、今、何時?」
時計を見せると、あと10分ほどで講義が終わりそうだった。緋月は、まだ、授業の選択すらしていないので余裕があるが、光希は違う。
「……いいや。前半は講義に出てたから、出欠は大丈夫なはずだし。それに友人のピンチに駆けつけられないのは、男して……」
「ピンチでも何でもないさ。これくらいの意地悪は今までもあった。今のは、まだ、優しいものだよ」
笑うと気の毒そうな表情の光希に申し訳なさを感じてしまう。それでも、心配して息を切らして来てくれたことが、なんだか嬉しくなった。今まで、こんな友人は近くにいなかったから、光希が友人でいてくれてよかったと思える。
「光希の優しさに昼を奢ってやろう」
「えっ? いいのか?」
「光希のおかげで、お小遣いも出来たしなぁ。食べに行こう。次は講義ないんだろう?」
「……よくご存じで」
二人でクスクス笑いながら、カフェテリアへと足を向ける。次のストリートピアノの話をしながら。未来の話をするこのたわいもない時間をとても心地よいと感じ、光希の背中をバシバシと叩いた。




