復学
「初めまして、響の友人でクリステルです」
「初めまして。クリステルさん、響に話をしてくれて、ありがとうございます」
「いえ、私が響の話を聞いて、ヒヅキさんの演奏を聴いてみたくなったので」
「そうだったんですか? それで、その……どうでしたか?」
緋月はクリステルを見上げながら、聞いてみると、ふっと笑う。思い出しているかのように、空を見て、微笑んだ。
「素晴らしかったです! 響が惚れ込むだけの音でした! 他にも何か活動をしているのですか?」
流暢に日本語を話すクリステルに、学生であることを伝えると驚いている。
「若いと思っていましたが、そうですか。まだ、学生でしたか」
クリステルが人差し指を顎に押し当てながら、少し考えたあと、ニッコリ笑いかけてくる。
「また、ここに弾きにきてくれますか?」
「もちろんです。オーナーからもお声がかかったので、また、来ます!」
「緋月は、その前に復学が先な?」
「……あぁ、そうだった」
「復学? 学校を休んでいたのですか?」
緋月を見つめる茶色い目は、どうして? と疑問を投げかけていた。話すつもりはなかったのだが、「弾けなくなって」とだけ、つい呟いてしまった。その呟きに、驚いたあと、悲痛な表情を浮かべるクリステル。緋月はそんな表情を誰かにされるが嫌で、誰とも関りを持たないようにしていた。モヤっとした心を隠すために緋月は微笑んだ。ここしばらくの光希たちとの交流のせいで、気が緩んでしまっていたようだ。
「……そうでしたか。でも、今日の演奏を聞く限り、また、音楽の道へ進めそうですね! 私も緋月さんに負けないように頑張らないと!」
「えっ?」
「私は、役者希望で、劇団に入っているんです。アルバイトをしながら、次の舞台に上がれるよう、頑張らないと!」
ニコッと笑うクリステルは、先程の表情を感じさせなかった。緋月に握手を求めてくるので、それに応じた。緋月が軽く握り返すとクリステルが頷き、手を離す。何か言葉ではない、エールをもらえたような気がした緋月は心の中でモヤっとしたものが晴れた気がする。
「引き留めてしまって、ごめんなさい。とてもいい演奏だったことを伝えたくて。それじゃあ、仕事に戻ります」
クリステルは、銀のお盆を持って、食事中の客席へ空になったお皿を集めに向かった。その後ろ姿は、目標に向かってしっかり歩んでいる人のように見え、とても頼もしく、緋月たちはしばらく見つめていた。
「響って、なんで、あのクリステル? と、友人なんだろう? 彼女、いろんな意味で苦労しているんじゃない?」
「そうかもしれない。でも、あの後ろ姿を見れば、折れない心が見える気がする。どんなことがあっても、夢を叶えるんだっていう意志を感じるよ」
クリステルを目で追いながら、ピアノをもう一度撫でる。緋月にはないその力強い感情を羨ましくも思えた。
家族から、弟から、日本から、緋月は逃げてきたのだから……、クリステルが眩しく見えるのは当たり前だった。
「そう言えばさ、」
話しかけてくる光希に「ん?」と緋月が振り返って返事をした。少し心配したように、次の言葉を言おうか迷っているようだった。
「……復学の話?」
「よくわかったな!」と驚いたように光希が苦笑いをするので、「雰囲気でわかるよ」と答えた。
「この1ヶ月、ほぼ、毎日を朝から夜中まで一緒にいるんだから、わからないほうが変だ」
「その言い方、熟年夫婦みたいな感じがする」
「はぁ? 光希と夫婦とかマジ勘弁。小うるさいし、めちゃくちゃ食べるからエンゲル係数どうなってるかわからないし、音楽への熱が熱すぎて、僕には無理!」
「べ、別にいいだろう? 音楽への熱量は、プロを目指しているなら、普通にあるだろ?」
拗ねたような光希を見て、緋月は笑った。自分にはないものを光希が見せてくれる。クリステルもそうだった。光希の音楽への情熱は、燻っていた緋月の心を動かすには充分な熱量であった。
「光希はあと1年なんだっけ?」
「そうだなぁ。緋月が残るって言うなら、卒業もこっちでできるよう手配してもいいと思ってる」
「欧州でプロを目指すか。結構、大変じゃない?」
「……大変じゃない? って、軽い感じ、やめて。想像以上に大変だから。今年はコンテストにたくさん出て、少しでもいい成績を残すつもり。緋月は?」
ピアノの上に置いてあった楽譜を片付けながら、少し先を考えてみた。緋月にとって、今まで、目の前のピアノを見つめるだけが精一杯で、未来なんてものを考えたことがなかったからだ。
期待したようにこちらを見つめてくる光希に苦笑いをし、カバンに楽譜を突っ込んだ。楽譜は古いものも多く、書き込みもたくさんあった。その中で、新しい書き込みがあったのを光希は見つけて嬉しかったようだ。
「今まで何も考えてこなかったから、今後のことは少し考えてみようと思う。このまま、家族のいないこの場所を拠点にするのもいいかなぁ? って思っているよ」
「緋月の場合、どこにいようとも、家族のことはついて回るからなぁ……」
呟く光希に「そうだよ」と答えた。緋月はその声音があまりにも穏やかであったことに驚いたが、以前に比べ、家族に対しての嫌悪感や虚無感がないことに気がついた。
この1ヶ月、光希が事あるごとに「緋月は緋月のままでいいんだ。南条に囚われる必要はない」と伝えてくれたおかげだろう。
ピアノを弾ける楽しさを取り戻せたのは、他の誰でもない光希がいてくれたからだった。
片付けが終わり、控え室へ戻る。荷物をまとめて、帰る支度を終え、部屋を出る。前を歩く光希の背中に小さく「ありがとう」と呟いた。
「礼には及ばないさ。俺が『南条緋月』のことを好きで、夢を叶えたかったんだから」
「そうなのか?」と呟きを聞かれた気恥ずかしさを誤魔化しながら、緋月は光希と並んで歩く。
「……いつかさ、」
「ん?」
「いつか、大きなコンテストに出るとき、伴奏をしてくれないか?」
「光希の伴奏なら、喜んで」
「喜んでか」
「そう。僕、光希のために全力を尽くすよ」
にっと笑うと、光希の顔が引き攣った。緋月の言葉の意味を光希はきちんと理解しているのだろう。
「全力を尽くされると、全力以上……いや、実力の倍以上の力を発しないと、俺の音が負けるじゃないか!」
「光希なら、僕の音に喰われることはないだろう?」
この1ヶ月のお互いの音を意識して、緋月は判断した。今まで、頼まれてたくさんの伴奏をしてきたが、光希なら今までの奏者のようなことはないだろう。
「自信持っていいよ。光希なら、ちゃんと、見つけてくれる。お互いが求める音のありかを」
「そこまで言われたら、答えないのは男じゃないなぁ? それこそ、いつか遠い未来で、麗羅を含めて一緒に音でわかり合いたい」
「クッサッ!」
「なんだとぉーーーー!」
ポツポツと明かりのつあた町中を歩き、響き渡る光希の声と共に、小さな笑い声があたりの暗さが気にならなくなった。
明日の大学の授業も楽しみなってきた。
「まずは、復学だな」
その日は、駅で別れた。
それから二人は、新学期に備え、授業の準備をすることになったので、会っていない。
1週間後、緋月はある大きなホールにあるグランドピアノの前に座っていた。




