旅路の始まり
「南条緋月を留年とする……か。まぁ、仕方ないよな」
大学の掲示板に貼られた通知を見て、ため息をつく日本人……、それが『南条緋月』であった。彼は日本の音楽大学からの留学生で、欧州の音楽を学ぶために来ていた。はず……だ。いや、実際は、この大学で留学初日以降、彼を見た人物は誰一人いなかった。
何故なら……、緋月は大学に通っていなかったから。何もせず、下宿先の学生寮で日長ピアノの前に座ったまま、動きもせず、ろくな食事もとらず、睡眠も疎かに、ただ、ピアノの前に座るという日々を送っていた。
緋月の部屋からピアノの音色が1音でも響いた日はなかった。いつぞやは、死んでいないかと管理人が部屋へ勝手に押し入った日でさえ、緋月はピアノの前で座ったままピクリとも身動きせず、死んだ目をピアノに向けていただけだ。
先日大学から必ず登校するようにと連絡があり、渋々、大学へと足を運んだのだが、予想通りの通知に緋月は驚きもしない。
「……あのクソ親父、キレるだろうな。おふくろも、ヒス起こしそうだし、ねぇちゃんに至っては……考えたくもねぇ……。一番厄介なのは、アイツなんだけどな」
緋月の家系は、日本でも有名な音楽一家だった。それぞれ得意なものへ才能を伸ばしている中、家の中で緋月は平凡であった。才能の塊の中にいれば、それは必然とわかる。周りの反応を知れば、一目瞭然で、さらに弟の存在が緋月を貶めた。
弟である『南条永遠』は、何百年に一人と言われる天才ピアニストだった。ピアノに対する貪欲さが桁違いなのだ。音にこだわるだけでなく、楽譜に対する理解情景、ありとあらゆるものを吸収しては1音への表現がすさまじく、重く軽やかで、そして、懐かしい。ありとあらゆる感情を揺さぶるような奏者だった。集中力も素晴らしく、1度スイッチが入ってしまうと、気が済むまで引き続ける。体が壊れてしまうのではないかと言うほどの入れ込みように、恐怖さえ感じた。
だから、緋月は逃げた。日本からも、家族からも、そして、天才ピアニスト『南条永遠』からも。
「……無理言って逃げて、この有様。まさにクズを表したって感じだな。親父は期待してなかったから、この結果を見ても、何も言わないだろうけど……大学は辞めろと言われるだろうな」
「あれ? 南条くん?」
「……誰?」
「酷いな。これでも、一緒に留学した仲なんだけど?」
話しかけてきたのは、背の高い青年だった。記憶を遡っても、全く思い出せない。確か、同じ時期に留学したのは、チェロ奏者だった気がするが、興味もなさ過ぎて緋月は「わからない」と素直に謝った。
「いいよ。別に期待してない。南条くんと一緒にこっちに来れたからさ、一緒にやってみたいことがあったんだけど、全然会わなかったから」
「あのさ?」
「何?」
「誰なの?」
「あぁ、ごめんごめん。藤谷光希」
「……藤谷」
「知らない? 結構コンテストとか頑張ってたんだけど?」
「悪い。興味なくて」
「チェロは人気ないなぁ……」
「いや、そうじゃなくてさ、そのコンテスト事態に興味がなくて、もう8年くらい出てないから」
光希は驚いた表情でこちらを見てくる。この留学自体が、コンテスト上位者であったり、実力がないと選ばれないのに、緋月が今ここにいることが不思議なのだ。
「そう驚くこともないだろ? 親の七光りだって」
「……でも、俺は南条くんのピアノ好きだけど?」
「あぁ、ありがとう。でも、それって……僕じゃなくて、永遠のほうじゃないの?」
「違うな。確かに弟くんのは、神懸っているけど……もう、なんていうか畏怖だよ。人はわけのわからないものに出会うと怖いんだ。俺は、そうだった。素晴らしいと評価する人が多いけど、得体のしれない腹の中が探れない機械のような音が怖いんだよ」
苦笑いする光希。家族を悪く言ってしまったとバツの悪い表情なのだろう。「気にするな」と声をかけた。実際、同じように感じて、逃げた緋月にとって、自分だけでなかったことに安心したのだ。
「南条くん、留年したんだね? どうするの?」
「何も考えてない。とりあえず、ピアノは……弾きたいとは思っているけど、なんていうか、指がうまく動かなくて」
「今でも弾いてる?」
「いや、弾けてない。毎日、ピアノの前には座るけど」
「そっか」と光希が呟き、少し考えている。少ししたあと、スマホを取り出し、電話をかけている。断りもなしにやってのける……陽キャな光希を少し羨ましく思いながら、その場を去ろうとすると、肩をガシッと掴まれる。大きなチェロを扱っているからなのか、元々鍛えているからなのか……、その力は強い。
「おぅけぇ! じゃあ、友人を連れて行くよ! じゃあ、また、あとで!」
電話を切り、光希はニッコリ笑いかけてくる。悪い予感しかしない緋月は、後ろへ一歩後ずさりしようとしたが、捕まれた肩に余計な力が加わっただけで逃げられそうにない。
「夏休みに入るしさ、ちょっと、合わせよう。俺、南条くんとの合わせをしたくて、ずっと機会を狙っていたんだ」
「……いや、さっきの聞いてた?」
「うん。ピアノの前に座っているけど、弾けていないんだろ? 1日弾かないとさ、腕は落ちるっていうけどさ、留年になった今、来年度に向けてのリハビリでやってみたらいいさ。小遣いももらえるし」
ニッと笑う光希に圧倒され、頷くまで帰してもらえない雰囲気で緋月は悟った。逆らえないと。
「……わかった。弾けないからな?」
「いいよ。俺が誘ったわけだし」
「それと……その、南条くんっていうのやめてほしい」
「じゃあ、緋月?」
頷くと、「俺も光希でいい」と笑うので、つられて笑ってしまう。いつぶりだっただろうと、内心ドギマギしながらこの強引な友人もどきの誘いにのる。
南条緋月が生涯最愛の人に贈る至極の1曲までの旅路が、この瞬間から始まったのであった。
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