第九章 帰還(2)
その言葉を聞いたソフィアは、ほっとした顔を見せた。王妃セラスは王の隣で俯いたまま、食事にも手をつけず黙然と座っていた。シルヴェウスはその王妃の横顔を、ちらりと横目に見てから続けた。
「……今後は、意志をもって子をなさぬことにしました」
「なんですって?」
信じられない返答に、ソフィアは思わず席を立って怒鳴りつけた。
「どういうつもり? ふざけるのも大概におし! 王が子をなさねば、この国はどうなるのですか! いったい誰がルーンの未来を背負って立つというのです!」
「母上、私には優秀な弟がおります」
王の言葉が意味するものは、つまり政権を弟に譲るということである。その場にいた召使や騎士たちは、皆それぞれに顔を見合わせた。
ソフィアは、シド・ヴァーンが王位に就けば「太后」という自分の地位を失うということを知っている。だから「正統な後継者である、自分の孫の誕生を」と熱望していたのだ。そうすれば、太后の位は揺るぎないものになる。
しかし、今目の前にいる息子の表情は、あきらかに今までとは違っていた。シルヴェウスの眼には、頑として譲らない強い意志が窺える。自身も融通の利かないソフィアは、一度これと決めたら何がなんでもきかない、という彼の性格をよく知っている。ソフィアは崩れるようにして椅子に凭れかかり、一気に十年も老け込んだような顔になった。
***
ディーンとカイトは、魔法陣を描くときに必ず交代制にしていた。キリエは特に気にしていなかったが、シグヌス・アルウェンはそれを不思議に思い、思い切ってディーンに尋ねた。
「公子殿下。なぜ、お二人で一緒に作業を進められないのですか? ご一緒のほうが、もっとはかどりましょうに」
「ごめん、今、ちょっと話しかけないでくれるかな」
休憩中のディーンは壁にもたれて目を閉じたまま、申し訳なさそうに答えた。かわりに、珍しくカイトが口を開いた。
「ディーンは……しゅ、集中してる。魔法、使ってるから」
シグヌスはカイトの嗄れ声に少し驚いた顔を見せたが、特に動揺したわけではなく、そのままカイトに向かって質問を続けた。
「なんの魔法を? 呪文は?」
カイトは困ったように首を傾げて、しばらく考えてから答えた。
「じゅ、じゅ、呪文使わない。遠い……眼、遠いところ見る魔法」
「『千里眼』ね」
解説図を見ながら魔法陣を描いていたキリエが、手を止めて顔を上げながら言った。
「やっぱり、ディーン様は呪文なしで魔法を使われるのね。そうではないかと思ってました」
「カイト、交替して」
ディーンが諦めたような声で言いながら立ち上がり、カイトの手からチョークを受け取った。二人は入れ替わりに場所を移して、今度はカイトが壁際に座って目を閉じた。ディーンは深く溜め息を吐いてから、シグヌスとキリエ、そしてようやく手を止めたマルス・メリルに向かって、説明をし始めた。
「いま、僕らが王城を離れるのは、本当は危険なんだ。けれど、この仕事を誰かに任せてしまうのも危険なんだよ。『彼ら』が、邪魔をしに来るだろうから……。でも、中止する訳にはいかない。だから、王城を監視しながら魔法陣を描くことにしたんだ」
「でも、殿下。どうして殿下は、そんなことがお出来になるのですか」
キリエは遠慮のない質問を、正直にぶつけた。
「キリエ。きみは、天竜のことを人より多く知っているよね」
ディーンは、チョークを持ったままで立ち上がったキリエを、きらきら光る黒い瞳で見上げながら言った。戸惑いながら、キリエは黙って頷いた。




