第七章 竜の鏡(5)
その事実は、彼女の心に大きな不安の影を宿した。空が雲に覆われるようにしてギレンの表情が暗く曇り、それに気づいたグウェイが、肘で軽く彼女の腕を小突いた。「そんな顔をするな」という意味だ。
騎士は常に毅然とした態度であらねばならない、とグウェイは考えており、実際に、身をもってそれを実行している。
ディーンは足もとの硝子壜を拾い上げた。そしてそのまま壜を手に持ち、魔法陣の中心にカイトと並び立って、足元から青い光に照らされながら話を続けた。
「『混沌』はぼくらの魂の源である、天竜の内部から生まれました。だからそれは、世界の一部なんです。けっして無くなることのないものなんです。そして、彼らは世界の『内側』に閉じ込められている」
「内側?」
問い質したのはメリル卿である。彼は、ズレた片眼鏡を直しながら、食い入るような表情で真剣にディーンをみつめている。ディーンは、目の前にいる老人の透きとおった瞳を、くっきりと強い意志をもった眼でみつめ返した。
「そうです。この世界の内側にある、もうひとつの世界。そこに『混沌』を閉じ込め、この世界の秩序を保っているのです。ぼくらは、世界の内部に矛盾を抱いて生きています」
ギレンには、ディーンの言葉のさす意味がよくわからなかった。だが、それは自分の心の内側に似ていると思った。
誰でも心の内側に、わけのわからない破壊的な――「混沌」としか呼べないような感情を抱え、意志をもった「秩序」でそれを制している。まるで、自分の心の中の「悪魔」と戦うようにして。
「もうひとつの世界……」
メリル卿は息をのんで、天井を仰ぎ見た。ギレンは咳払いし、ディーンに尋ねてみた。
「殿下。それは、どんな世界なのですか」
そのときギレンをみつめたディーンの瞳は、こころなしか、その瞳孔から紅い光を放っているような気がした。一瞬、ギレンは吸い込まれるような気がして少し怖くなり、その恐怖心を払うために激しくまばたきをした。
「その世界は、まったく秩序を持たない……人の住めない世界です」
急に空気が重くなったような、少し部屋が暗くなったような違和感があった。ギレンは二、三度咳払いをして、気持ちを落ち着けようとした。
すると、それまでずっと黙っていたグウェイが唐突に口を開いた。
「なぜ千年に一度なのですか」
メリルもギレンも忘れていたが、その質問は核心に迫るものだった。ディーンはグウェイの細い眼をまっすぐ見据えて、すぐに答えた。
「ゲルブルが、千年に一度『境界』を破るから」
「『境界』?」
まったく同時に、メリルとギレンが声をあげた。その訝しげな表情を見たディーンは、かるく目を閉じ、小さな溜め息を吐いてから話し始めた。
「そう、この世界とあちらの世界の結び目、扉、出入り口。それが『境界』です。世界を分けるためにはどうしても必要で、なくてはならない場所。この『境界』は、妖精王たちの力で封印されています。しかし、妖精たちの長老である妖精王にも、生命の限界というものがあります。千年に一度、彼らの交替のときが来るのです。彼らはそのときを狙って、『境界』を破ろうとします」




