第六章 誘惑(3)
それから毎日、男は決まった時刻に現れた。夜の消灯時間から、一ミディス程度の頃。ほぼ真夜中である。男は、いつもセラスが気づくとすぐに去っていった。宮廷内で見覚えのある顔ではない。
セラスはそのことを誰にも言わなかった。噂になるのも嫌だったし、彼女自身、その男がなぜ毎晩自分の部屋の近くに現れるのか、知りたくなったからというのもある。
暗くて服装はよくわからない。なのに、なぜか彼がどんな表情をしているかは、はっきりとわかるのだ。
(魔法かしら)
彼女の心には、猜疑心と興味の両方が渦巻いていた。シルヴェウス王が邪法の魔道士に操られていたという話はあまりに有名である。しかし、アゼルというその魔道士は、既に退治されたと聞いている。それに……政治的には何の権限もない自分に、邪法の魔道士がどうこうしようと企むのは考えにくい。
(誰かに、相談すべき?)
冷静に考えればそうだ。でも、いったい誰に? セラスは思いをめぐらせた。
真っ先に思い浮かんだのは、王弟シド・ヴァーン公。彼女は秀麗な眉を顰めて、首を横に振る。
(だめ)
王妃になったばかりの頃、シドに手紙を出したことがあった。翌日、出したはずのそれを、目の前で王に破り捨てられた。一切の連絡を禁じる、という訳だ。連絡しようにも手段がない。王宮内には、自分に味方してくれる者など一人もおらず、ひそかに手紙を出そうと思っても、秘密を守ってくれそうな者が思い当たらない。
表面だけは雅やかで、まばゆいばかりに美しい「水の王宮」も、セラスにとってはただ不自由なだけの場所。新年の挨拶でリィル・シェルメル家に帰るときだけが、彼女にとって唯一の癒しのときだった。
(わたしは、いったい何なのだろう)
セラスは深い溜め息を吐き、寝台に伏せた。この世界は――彼女にとって、悲しいことが多すぎる。何度「もう消えたい」と思ったことだろう。誰も信用できず、誰からも必要とされず、誰にも素直に心を開けず、ただ飾られているだけの「お人形」。白く細い花びらのような睫毛の上を、涙の粒がつたって落ちた。
もしもそのときセラスがもっと冷静であったなら、怪しい男のことをシルヴェウス王に伝えただろう。そうすれば、彼は二度と近づくことができなかったはずなのだ。
だが、王妃は既に、少しずつ魅入られていた。邪眼の魔法である。




