第五章 ルーンの妖精(8)
「あの子は昔、誰にも心を開きませんでした。原因は何かわからないが、幼い頃はひとことも喋らなかったんですよ。でも、あなたの手紙のおかげで、笑顔を見せるようになり、話をするようになり、ついには歌うようにまで……あの子はずっとあなたの存在を心の支えにして、生きてきたのです」
その衝撃は、シドの心に深く突き刺さった。
思えば、いつからか――自分もそうではなかったか。セラスの手紙はいつも彼の心を癒してくれた。殺伐とした貴族たちの思惑が支配する宮廷の世界で、それが心の支えになっていた。
そのとき、シドは初めて知った。セラスと自分の間にあった、魂の深いつながりを。いつしか当たり前のように感じていたそれが、どんなに得がたいものであったかを。今まさにその絆が失われようとしている。断ち切ろうとしているのは自分なのだ。自分の弱さが、何より大切なものを壊そうとしている。
シドは立ち上がった。
すると、それまで腕を組んでじっと話を聞いていたギレン侯が、彼に声をかけた。
「戦が始まろうとしている。近いうちに、王子も南方へ出ることになるぞ」
南方と聞いて、シドとリィル・シェルメル伯爵ふたりの顔に、さっと緊張が走った。南にあるのは砂の大国ティクである。ティクの王家は数年前に世代交代したのだが、新しい王になった途端、軍備をどんどん強化しているとの情報が入っている。シグルド王も、それでティクへの関心と警戒を強めていた。
ギレン侯は、非公式に独自の情報網を持っている。戦に関しての重要な情報は、おそらく国中のどこよりも早く彼の耳に入るはずである。そして彼の「予想」は、これまで外れたためしがない。彼は、自分なりに「ほぼ確実であろう」と思うことしか口にしないのだ。
シドはギレン侯に深く頭を下げて、外に出た。
暗くなりつつある門の前で、ルース・シェルメルが待ち構えていた。その隣で、シドの従者がシドの走竜を用意している。
「ご武運を」
ルースは嬉しそうに言った。
「ははッ!」
悩みの晴れた顔で、シドはにこやかに笑った。そんな笑顔は滅多にみせない。
「戦に行く訳じゃないぞ」
「いいえ」
すばやく走竜にったシドを見上げ、ルースは満面の笑顔で敬礼した。
「恋は戦です。ご武運を!」
シドはルースに軽く片手を上げてみせ、それから走竜の右頸を二度すばやく叩いた。合図を受けた走竜は、草色の鱗を夕陽に光らせながらリィル・シェルメル家へ向かって駆け出した。




