第五章 ルーンの妖精(2)
若き日のシド・ヴァーンは、無骨で不器用な少年だった。彼には一人の許婚がいた。その名は、セラス・リィル・シェルメル。五歳下の、さる貴族の令嬢だった。
それまで、剣の修業ばかりで女に興味を持たなかった十四歳のシドは、許婚の存在を知った途端、どうしても彼女の顔を見てみたくなった。貴族の姫君は十歳を超えると、特別な事情でもない限り、人前には滅多に姿を見せなくなる。会うなら今のうちだと考えた。しかし、そうは言っても機会も無いし、なかなか勇気が出なかった。
その頃、ローランド・ギレンのもとでともに武術を学ぶ同世代の公子の中に、ルース・シェルメルという十二歳の少年が入ってきた。話しかけてみると、身分の高い貴族のわりには気さくで話しやすい人柄だったので、すぐに打ち解けた。
ルースはシドを兄のように慕うようになり、ローランド・ギレン師のもとで腕を競い合い、磨きあった。半年ほど経って、セラスがもうじき十歳の誕生日を迎えることを知ったシドは、思い悩んだ末に、そのことをルースに話した。
「なんだ。そんなことなら、もっと早く言ってくれればよかったのに」
そう言って、ルースは自分の従妹と密かに会わせる算段を立ててくれた。彼は、そういうことには呆れるほど頭のまわる子どもで、あれよあれよという内に段取りが決まってしまった。自分が望んだこととはいえ、シドはその日取りを知ると、眠れなくなるほど緊張した。
楽しみという気持ちより、憔悴のほうが先立っていた。「ちょっと顔を見てみたい」と、漠然と思っていただけなのに。急に実現してしまったその望みに対して、シドは尻込みし始めていたのだ。
困ったことに、ルースはそのことを同年代の仲間たちに吹聴してまわっていた。まさか王子を小ばかにする連中がいるという訳ではないが、朴念仁だと思われていたシドのロマンスは、格好の噂の的になった。
それでもう少年のシドは、恥ずかしさでいっぱいになってしまって、いざ当日がきても一言も話しかけることができなかった。シェルメル家の領地にある湖の畔で、ルースたちがこっそり見守る中、シドとセラスの二人は押し黙ったまま並んで座っていた。
セラスは、めずらしい白銀の髪と、春の雲間のような淡い色の瞳を持つ美しい少女だった。彼女のあまりの美しさに、ひと目見たきり、シドは正視することもできなくなった。空には雲ひとつなく、初夏の風は爽やかに水上を吹き抜け、九歳の少女の髪を揺らした。その横顔をちらちらと覗きながら、シドは彼女を、
(光の妖精のようだ)
と思い、大人になった彼女の婚礼姿を想像した。
(ぼくが、こんなきれいなお嫁さんをもらっていいのだろうか)
まだ幼く奥手な二人は、結局、互いにひとことも話をしなかった。しかしその日のまぶしい記憶は、今もシドの心の深奥に、たいせつな宝石のように仕舞われている。




