第四章 緋鬼ル・グウェイ(5)
――パキン。
赤黒い暗闇の中で、何かが割れる音がした。
「おお……」
夥しい数の蝋燭の明かりに照らされた老婆が、よく磨かれた黒い石板の前で呻き、蹲った。
「お……お赦しを……」
老婆の目があるはずの場所は、眼球がふたつとも失われ、深く穿たれた眼窩しかない。そのため、まるで「生きた髑髏」のような、不気味な顔になっている。彼女は多くの玉飾りを首に提げているが、そのうちのひとつが砕け散っていた。
「……次の……次の『駒』を動かしますゆえ……」
黒い石板には、古代魔道文字がびっしりと細かく刻まれ、その中心に六芒星の魔法陣が描かれていた。人間が使用する魔法では、ふつう、魔法陣には五芒星が使われる。
老婆は古代魔道呪文を唱えた。すると、石板の魔法陣から煙のようなものが立ち昇った。術が完成すると、老婆はにやりと笑ってつぶやいた。
「もう、じ……じきに、ございます……」
石板の後ろには、岩窟の岩を半分掘り出して造ったらしい、巨大な彫像がある。
「バ……ルさま……」
岩窟像は、六枚の翼を持つ半竜人の姿をしている。その禍々しい造形は、絵本に見る「悪魔ゲルブルの王」の姿に、どこか通じるものがあった。
***
シルヴェウス王は、いつになく清々しい目覚めを迎えた。彼は、不思議な気持ちで天井をみつめ、いつものように片手を挙げた。
「誰か……誰かおらぬか」
部屋の隅で居眠りしていた側近が、その声に気づいて駆け寄った。王はアゼルの名を呼ばず、憑き物が落ちたように晴れやかな表情で、こう言った。
「白い光に包まれる夢をみていた。気持ちのいい夢だった。しかし腹が減ったのう、何か食べるものをくれ」
王が身支度をして玉座の間へ入ると、官僚たちは一様に神妙な顔をして、じっと彼を見守った。
「なんだ。どうしたのだ」
彼はいつもと違う様子を不審に思い、側近に尋ねた。一瞬、側近はひどく困惑したが、すぐさま王に耳打ちした。
「陛下は、三日間おやすみになられていたのでございます」
王は目をまるくした。
「三日? わしがか?」
「はい」
「三日……」
王が呆然とした顔で玉座につくと同時に、みな恭しく礼拝した。
そして、右大臣が待ち構えたようにメリル枢機卿を呼んだ。銀と青の法衣を着たメリルが、王の前に出た。
「陛下、本日はご機嫌麗しゅう」
「挨拶はいい。なんなのだ、政務の前に報告とは」
メリルは魔道士アゼルのことを説明した。王はそれを最後まで聞いていたが、どこか腑に落ちないような顔をしていた。そして、メリルの報告が終わるなりこう言った。
「その、アゼルというのは誰だ。初めて聞く名前だが」
大臣や政務官たちは、みな驚いた。シルヴェウス王は、アゼルが来てからの記憶をすべて失っていたのである。




