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ショートショート「母の梅酒」

作者: 有原悠二

 命は平等ではない。

 私がなぜそんなことをふと考えたのか、それはきっと姉が妊娠したからだろう。私と姉はそこまで年は離れていないのに、姉は昔から大人びていた。

「あんたね、いい年なんだから、もうそろそろ自立しなさいよ」

 姉は会う度に私にそう言った。私はなにか言い返したかったが、その通りだと思っているのでなにも言わなかった。今年で二十代が終わる。もう女としての魅力は落ちる一方だ。仕事も面白くないし、父は去年他界して、家にいる母と私はなんのために生きているのか、もうよく分からなかった。

 雨が降っていたある日、私は休日だというのにずっと家の中からガラス越しに外を眺めていた。すると、母が台所から私を呼んだ。

「ちょっとこっち来なさい」

 なんだろうと思って行ってみると、母が台所のテーブルの上に新聞紙を広げて、その横に大量の梅を置いていた。

「今年も梅酒を作るから手伝ってちょうだい」

 母は毎年梅酒を自分で漬けていた。その梅酒をいつも美味しそうに飲んでいたのは、もうここにはいない父だった。だから私はもう梅酒なんて作らなくていいだろうと思っていた。

「お母さん、梅酒なんて作っても、誰も飲む人いないじゃない」

 そう私が言うと、母は悲しそうな顔をした。

「仏壇に置ければいいのよ」

 そして梅を新聞紙の上に広げると、かごを用意して、慣れた手つきで梅の選別を始めた。私も昔からその光景を眺めていたので、なんとなく作り方は知っていた。まず梅を一つ一つ磨きながら、小さなものや傷のある梅を間引いていく。私は母と向かい合うように座ると、ゆっくりと作業に取り掛かった。

 雨粒が窓を叩く音が聞こえる。母はもういい年だ。私より母が先に死ぬことは分かっている。しかし、どうしても実感が湧かないのだ。確実に訪れる死。まるでこの雨のように、それはどこか遠い世界での出来事のように感じてしまう。

 母は梅を一つ一つ丁寧に磨いている。ときおり目を細め、どこか寂しそうな顔で、青い梅を手の平で転がし、宝物のように息を吹きかける。私もそれを真似てみようと思ったが、どうも恥ずかしくて、私は流れ作業のように淡々と梅を分けていった。

「あら、この梅」

 母が手を伸ばして梅を見せてきた。

「おおきなこぶができているわ」

 その梅には確かにこぶがあった。まるで妊娠でもしているかのように。

「この梅はダメね」

 そう言いながら、母はその梅をくずかごへ捨てた。私はそれを見て、なぜか悲しい思いがした。やはり命は不平等なんだと思った。捨てられる梅。選ばれる梅。その差はいったいなんなのだろうか。少しの傷が、ほんの少しの小さな傷があるものは、挽回の余地なく捨てられてしまうのだろうか。

 ふと、姉のことを思い出した。妊娠。新しい命。目の前の母は、新しい命を育て、そして今度は自分が死んでいく。父は死んだ。順番が狂うことはまれで、次は母、次に姉、そして私は誰にもバトンを繋ぐことなく死んでいくのだろうか。

 そう考えると、涙が溢れそうだった。私は父が好きだった。もちろん、母のことも愛している。それなのに、こんなにいい機会なのに、感謝の言葉がどうしても言えなかった。

「さっきの梅、まるでお父さんみたいだったね」

 その言葉の意味が私には分からなかった。母はもしかしたら、父のことが好きではなかったのかもしれない。それでも梅酒を作る母を見ると、私の考えがあまりにも馬鹿馬鹿しく思え、そして私は手を止めた。

「どうしたの?」

 命は平等ではないかもしれない。しかし目の前で梅を磨いている母の姿が、私の心を苦しめるのだった。母の手つき、母の表情、そのどれもが美しかった。私はその美しさを前に、死ぬことの無常さなんて、どうでもいいように思えた。

「今年の梅酒も美味しくできるといいね」

 私は生きている。それはそれだけで非常に美しいことだと思った。そして私にもいつか家庭ができたら、この梅酒を代々継がせたいと思った。

 気がつけば、雨は止んでいた。

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