第1話
その犬を初めて見たのは大学一年の五月だった。都内の大学に入学して一人暮らしを始めた私が、ゴールデンウィークに静岡県の実家に帰省した時だ。
私が家を出て間もなく、両親は、知人の付き合いで行ったペットの保護施設でたまたま見かけた保護犬を、家で引き取って飼うことにしたのだそうだ。
「だって訴えるような目で見つめるのよ。運命の出会いだと思ったの」
そう母は私に言い訳をするように笑って言っていた。
真っ白なその犬は「ミルク」と名付けられた。
おかしいと思ったのは半年を過ぎた頃だった。
一、二ヶ月に一度帰省していたのだが、ミルクのその成長度合いが半端ではないのだ。最初に見たときは片手で持てるほどの小さなチワワだったのが、年末には柴犬ほどの大きさになっていた。
「ねえ、ミルクってチワワだよね?ずいぶん大きくなってない?」
そう聞く私に、両親はけげんそうな顔をした。
「そんなことないわよ。もらってきた時と大して変わらないわよ、ねえ、ミルちゃん」
「たまにしか帰ってこないからわからないんだ。もっと帰ってこいってことだよ」
「ああ、はいはい」
一年も経つと私は、年末年始と夏休みの数日しか実家に帰らないようになった。
大学二年の年末、私が実家へ帰ると、ミルクはさらに成長し秋田犬ほどの大きさになっていた。
「え、何この大きさ」
私が驚いて母を見ても不思議な顔をしているだけだった。
私が自分の部屋へ荷物を置きに行くと、いつの間にかミルクが後ろにいた。
「お前、俺の姿が見えるのか」
「え、何、何、喋ってる?」
「しっ。お前にしか聞こえない」
私は小声になった。
「あんた、……何なの」
私の背筋に悪寒が走った。
「俺は人間の悪意を食べて食べる妖怪だ。人間界には悪意がたくさんあるからな」
「じゃあ、あんたはお母さんやお父さんの悪意を食べて大きくなったって言うの」
「違うよ。違う。あとで一緒に散歩に行けばわかる。それより、他の人間には小さな犬の姿しか見えてないのに、なぜお前は本当の姿が見える」
そう言われて見ると、白い秋田犬の足元に小さなチワワの姿がうっすらと見える。
「お前、もしかして二月二十九日生まれか?」
「そうだけど」
「ふうむ。長いこと生きていると妖力が効かない人間と時々出会うが、それは皆二月二十九日生まれだった。お前もそうか。昔の飼い主にも二月二十九日生まれがいたんだけど、気味悪がられて俺は捨てられたんだ」
「だから何よ、このバケモノ」
「なんとでも呼ぶがいい。俺から見ると人間の方がもっと恐ろしい」
「今すぐこの家から出て行って」
「やなこった。俺はここが気に入ってるんだ」
夕方、ミルクの散歩に行くと言う母に私も同行した。
ミルクは母の二歩先を楽しそうに歩き、時折母を振り返る。こうしているととても妖怪とは思えない。
河原の遊歩道では、犬の散歩をしている人を多く見かける。
「あら、加奈ちゃん、帰ってきてるの」
声をかけてきたのは中学の同級生の母親だ。
「こんにちは」
「加奈ちゃんは良い大学に行ったから勉強が忙しくてなかなか帰ってこないねって娘と言ってたのよ」
「いえ、そんな」
その時私は、ミルクの身体が少し膨らむのを目の端で見た。
「ねえ、学校の前の井上さんちの娘さんこと、知ってる?ああ、加奈ちゃんも同じクラスだったかしら」
「井上さんがどうかしたんですか」
「最近、服装が派手になったと思ってたら、隣駅の駅前でチャラチャラした人たちと一緒に歌を歌ってるらしいわよ」
ストリートミュージシャンというやつか。そういえば高校の時もバンドを組んでたっけ。
「へえ、すごいですね」
「すごくなんかないわよ。就職もしないでアルバイトでフラフラしてて、歌手になるんだかなんだか知らないけど、年頃の女の子が夜遅くまで出歩いて。あれじゃ井上さんも心配よねえ。まともな結婚はできないんじゃないかってみんな言ってるのよ」
「はあ」
母をチラと見ると、やはりウンザリした顔をしていた。私の両親は人の悪口は苦手なタイプだった。
「な、わかっただろ」
家に帰ってミルクの足を洗ってやっていると、また少し身体が大きくなっていたミルクが言った。
私は答えなかった。
私はこの犬を実家に置いたままではいけないと思った。このままでは妖怪に両親が食べられてしまう。
年が明け、明日は自分のアパートへ戻るという夜、私は両親に頼んだ。
「近頃物騒だから、私も番犬を飼いたいんだけど、お願い、ミルクを私にちょうだい」
「ええ?新しい犬を買えばいいじゃない。バイトしてお金貯まったんでしょ」
「だって私、新しい犬のトイレの躾とかできないから」
と、私は渋る両親を無理やり説得した。
ミルクを引き取ってどうするか何も考えていなかったが、霊関係に詳しい友人に相談してなんとかしようと思っていた。とにかく両親から引き離さねば、という気持ちでいっぱいだった。
翌日、私はペット用キャリーケースでミルクを連れて私のアパートへ帰ろうとした。
しかし、ミルクは短い足を踏ん張って入ろうとしない。
「嫌がってるわ。いつも出かけるときは喜んで中に入るのに」
母は言った。
私がなんとかしてミルクの身体を押し込もうとしても、ビクとも動かない。
「ミルちゃん、言うことを聞いて、ね」
母は言った。
ミルクは足を踏ん張りながら私に言った。
「嫌だ、行きたくない」
「あんたは私のところへ来るの。さ、入って」
「ミルちゃん、いい子だから加奈ちゃんのお家に行きましょうね」
小さいミルクは母の顔を見上げた。
「嫌だ、お母さんと離れたくない。お母さんの側がいい」
ミルクがポロポロ涙を流して訴えた、……ように見えた。
「ミルク……」
私はミルクを連れて行くのを諦めた。
その代わり、別れ際、ミルクの耳元にこっそり囁いた。
「両親に何かあったら、絶対許さないからね」
ミルクはフフンと鼻を鳴らした。
「お前に何ができる」
その後、私は以前よりは実家に帰る回数が増えたが、その度にミルクは大きくなっていた。ミルクは泣き顔を見られた気まずさからか、以前ほど私に偉そうな口をきくことはなくなった。ミルクを百パーセント信用したわけではないが、少なくとも母を慕う気持ちは本当だろうと感じていた。
「ミルちゃん、偉いのよ。この間なんか」
ある時、お盆休みに帰省すると母が言った。
「この間リフォーム業者が来て無料でシロアリ診断しますって言うから、お願いしようとしたらミルちゃんがうるさく吠えてね、飛びかかっていきそうな勢いだったから、またの機会にって断ったのよ。そうしたら、その後すぐに、リフォーム詐欺が多いから気をつけましょうってテレビでやってるの見て。まるでミルちゃんはわかってたみたい。詐欺に引っかからないように助けてくれたんじゃないかって」
「ミルクは賢いんだ、飼い主に似たのか、なあ、ミルク、偉い偉い」
父もそう言ってミルクの頭を撫でた。
「まさか」
ミルクを見ると、少し誇らしげな顔をしていた。
「ま、いっか」
妖怪犬ミルクは今も私の実家で暮らしている。