15歳、晩春。
「スイ様って素敵ですよねえ」
窓際に座るライの隣に座っているトウが、頬杖をついて窓から見える濃紺の軍服姿を見ながら呟く。
先程までライの隣に居たスイは、ライを教室まで送り届けると、国立軍へと訓練に向かう。
溜息と共にトウの口から出たその言葉に反応したのは、ライの前に座る少女ソウだった。
「本当ですよね。ライ様と同じ組じゃなかったら、私なんてお目に掛かることすら出来ませんよ」
ソウの白い頬には薄くそばかすがあって、長い黒髪をおさげにしている。
黒い縁の眼鏡の奥にある淡い赤色の瞳が、ライを見て微笑む。
少しずつ慣れてきた学校生活で恐る恐るライに話し掛けてくれたソウは、ごく一般の家の出身だった。
「名家藤壱家の出身で、史上最年少で国立軍入りした天才。高い身長に、あの見た目。しかも、話してみればとても気さく。もう非の打ち所がないです」
「あんな素敵な人と、おはようからおやすみまで一緒だなんて。ライ様でなければ釣り合いませんよ」
窓から見えるスイは真っ直ぐに校門を目指して、青々とした芝生を歩いている。
遠くから見ても、その高い身長にしっかりとした体格が目立つ。
未だちらほらと、校門から校舎へと向かって歩いてくる生徒は多い。
開け放たれた窓から、少し温くなった風がライの銀髪を揺らした。
「……あ」
それは、誰の口から漏れた声だったのだろう。
三人ともがスイを見ている中、小柄な女子生徒がスイを呼び止め、何かを話し掛けている。
緩やかに靡く黒髪は遠目でも丁寧に手入れされているのが分かる。
その瞳の色は赤く、熱心にスイを見つめていて、頬が僅かに桃色に染まっている。
そんなふたりの様子を無意識に凝視して、ライはどうしてか、胸が騒つく。
こちらに背中を向けているスイの表情は窺えない。
「……参梅家の、コウ様ですね」
その場の誰もがふたりから目を離せないまま、トウが呟く。
ライと同じ四大名家のひとつ、参梅家は学問に優れていて、代々優秀な学者を輩出してきた名家だった。
「同じ名家だから、スイ様とも面識があるんですかね」
ふたりは暫く何かを話したあと、互いに別々の方向へと歩いていく。
コウが不意に、視線を上げた。
コウの真っ赤な林檎みたいに鮮やかな赤と、ライの左右で濃淡の違う青い瞳が重なって打つかる。
コウのその綺麗な口元が僅かに上がるのを、ライは表情の無いままに見つめた。
「コウ様は私たちよりひとつ年上なんですが、同じ学年には弟のリン様が居るんですよ」
「……そうなんだ」
ライの意識は真っ赤に向けられたままで、曖昧に相槌を打った。
ライとコウの視線が合ったのは一瞬で、コウは何事も無かったかのように歩いていき、直ぐに見えなくなる。
スイも、コウも、見えなくなったのに、ライの心は何故か、激しく白波を立てている。
強い魔力を持つ者の魔力暴走の原因は、深い悲しみだと言われている。
そして、そんな感情が起こるのは大抵が人間に対してだとも。
だから、魔力制御を習得するまで、ライは他人との関わりを最低限に抑えられてきた。
そんなライには、この粟立つ気持ちがどんなもので、何という名前なのか、検討もつかない。
咲き誇っていた桜の花たちは足早に走り去っていて、もう直ぐそこまで激しく照らす夏が待ち構えていた。
ーーー
「スイー」
国立軍の訓練棟には執務を行う部屋もあり、そこから出てきたばかりのスイを、聞き覚えのある低い声が呼んだ。
「よっ!」
「クウ」
赤い瞳に、ふわふわとした癖っ毛を短く切り上げて、スイと同じく濃紺のズボンを着こなした青年は、四大名家のひとつ、伍菊家の嫡男クウだった。
訓練終わりなのだろうクウは、白いシャツを着崩していて、額から滴る汗を腕で拭っている。
「隊長となんか話?」
スイが出てきた部屋の主人は、ふたりが所属する第一軍の隊長だった。
国立軍の中でも第一軍は飛び抜けて精鋭で、帝族や要人の護衛、戦争になった場合は真っ先に前衛に送られるような優秀な人材が所属する。
「ああ、来週から少し都を離れるから」
「そうなの?青の一族の護衛?」
「うん」
ライの魔物討伐の行き先は、都から遠く北に離れた街だった。
近くに海もあり、四方を林に囲まれた都から汽車に乗り向かう。
「ふーん」
ライが成人するまでの数年間に渡る護衛は常に危険が伴う為に、他に兄弟の居ないクウはいち早く候補から辞退していた。
「そういえば、聞いた?ソラが、青の一族の護衛を変えるだなんだのって言い出してんの」
「は?」
またソラが面倒なことを言い出したのか、とスイは眉を寄せた。
「そんなこと、ヨウ様からは聞いてない」
「またソラが勝手に言ってるんでしょ。昔からスイと張り合うからねー」
藤壱家と、伍菊家。
両家は互いに国立軍人を輩出してきた名家であり、穏便派である藤壱家と過激派である伍菊家は、古くから犬猿の仲だった。
戦争など無くなった今の時代においても、未だ武力こそ全てだと掲げる伍菊家は若干世間から浮いていて、嫡男であるクウは、時代の流れだろうか、穏便派に傾いている。
顔を顰めるスイを可笑しそうに眺めるクウは、幼少期に偶然出会ったスイと気が合い、藤壱家を蛇蝎の如く嫌う自身の父親に隠れてモクの元へ通う程であった。
そんなクウは、スイとソラの関係性もよく理解していた。
「そんなことより、どうよ?」
「……どうって?」
自身の訓練の為に訓練場へと向かうスイの隣をクウも並んで歩く。
ふたりの背丈はとても良く似ている。
外に面した廊下からは、暖かいを通り過ぎた風が吹く。
クウの綿毛のような黒い癖っ毛が、ふわふわと揺れる。
「青の一族のことだよー。すごい美人なんでしょ?」
「…ああ、まあ」
スイは今朝も教室まで見送ったライを思い出した。
トウも一緒に居るお陰か、少しずつ打ち解けてきたようで、教室に入って声を掛けられているのを、スイはまるで兄のような気持ちで見ていた。
「今年の入学生は男が多かったらしいね。しかも、誰に聞いても、美人だって言うらしいじゃん」
珍しい色彩を持ったライが、照れたように、はにかんだように笑った顔がスイの脳裏に浮かぶ。
今まで人とあまり関わらないようにされてきたライは、再会したばかりの頃はあまり感情が表情に出なかったけれど、最近は少しずつ笑顔を見せるようになっていた。
「いいなー、スイは。そんな美人と四六時中一緒なんだろ?しかも、同じ屋敷に住んでさ。俺も兄弟が居れば立候補したのになー」
「……」
「ま、他に想い人が居るスイはそんなこと関係ないか」
何かを勘違いしているらしいクウは、どうしてか、スイには一途に想い続ける誰かが居るのだと思い込んでいる。
スイは敢えて否定せずに、曖昧に笑ってみせた。
「また都に帰ってきたら、俺にも会わせてよ」
「……ああ」
「じゃあ、俺行くねー」
辿り着いた訓練場の前で、クウは手を振って去っていく。
その背中を見送りながら、スイはひとり、空を見上げた。
青い空には綿飴みたいな雲が浮かんでいて、ゆっくりと形を変えながら流れていく。
スイの短い髪を春の終わりに吹くような風が揺らして、空を見上げたままスイははたと考える。
あの日からただひたすらに、護ってあげたいと思っているこの気持ちは、何と言うものなのだろう。
あの宝石みたいな青い瞳から涙が溢れるのを見たくなくて、いつだってあの笑顔で居て欲しくて、そんな気持ちの名前を、スイは未だ知らないままだった。
ーーー