ーーー
「おかえり、ライ、スイくん」
「ただいま戻りました」
「…ただいま」
スイとライは七桜家の大きな屋敷の玄関で靴を脱ぐ。
使用人が出迎える中、奥から室内着のヨウが顔を出す。相変わらずにこにこと微笑んでいる、虫も殺せなさそうな、そんな見た目に反して、ヨウもまた国を代表する国家魔術師だった。
「ライ、学校はどうだった?楽しかった?友達は出来た?」
余程、ライの初登校の様子が気になるのだろう、矢継ぎ早に質問を重ねるヨウに、スイはこっそりと苦笑する。
リビングの扉を開けたヨウに続いて、スイとライもその部屋へと足を踏み入れた。
上品な調度品が並び、花瓶には花が飾られている。
ヨウは、淡い緑色をしたソファに腰を下ろした。
「……白水家の、友達が出来ました」
「白水?…ああ、トウかな?」
「はい」
「そうなんだ。トウなら明るいし、きっと仲良くなれるよ」
ヨウが座った向かい側のソファに、スイとライが並んで腰を下ろす。
そのタイミングを見計らったように、使用人のひとりがお茶と共に切り分けられた林檎飴を机に置いた。
「わあ、林檎飴だ。お祭りに寄ってきたの?混んでたでしょう?」
「そうですね、かなり混んでました」
真っ赤な洋服を着た林檎が、一口大の大きさに綺麗に切り分けられている。
スイがそう答える中、スイの隣に座っているライの体が唐突にゆっくりと傾きかけた。
「……ライ?」
そんなライを視界の隅で捉えたスイがライの名を呼べば、ライは慌てたように、はっと姿勢を正す。
「……そうか、今日は満月だったね」
「え?」
ぽつり、とヨウが言ったと同時だろうか、ライの体が耐え切れずにスイの元へと吸い込まれるように倒れ込んだ。
「ライ?大丈夫か?」
「だ、だいじょうぶ……」
その答えに反して、ライは支えるスイの腕から起き上がることが出来ない。
「……スイくん、迷惑じゃなかったら、そのままライを部屋まで運んであげてくれる?」
「え?…あ、はい」
突然のことに、スイは頭が回らない。
スイにもたれ掛かったまま起き上がらないライを見れば、その青い瞳は閉じられていて浅い呼吸が繰り返されている。
どうやら、眠ってしまったようだった。
ライの体は温かく、微かに花のような甘い香りがする。
ついさっきまで起きていた筈のライは、何故こんなにも突然に眠ってしまったのか、スイにはさっぱり分からない。
兎も角、スイは眠っているライを抱え上げて、立ち上がったヨウの後ろをついていった。
「ここがライの部屋だよ。その両隣がフウとカイ。スイくんは、真向かいね」
長い廊下の先にある、開けられたライの部屋からは一層濃い花の香りがした。
スイは部屋に入ると、整えられた寝台の上にそっとライを下ろす。
「後は使用人がするから。スイくん、驚いたでしょう?説明するよ」
「はい」
月明かりに照らされるライを最後に見てから、スイはそっと扉を閉めた。
戻ってきたリビングの上にあった林檎飴はそのまま残っていて、新しく入れられたのだろう、緑色のお茶からは湯気が上がっている。
「……ライが突然眠っちゃったのには、訳があるんだ。病気とかじゃないから大丈夫だよ。驚かせちゃったね」
先程と同じソファに座り、ヨウは苦笑した。
その目尻には薄く皺が入って、実年齢よりも若々しく見えるけれど、やはり自身の父親と同世代なのだなとスイは実感する。
スイもまたヨウの向かい側に腰を下ろし、お茶に口を付けた。
熱いお茶が喉を通って、食道に入っていくのが心地良かった。
「……それなら、良かったです。あの、ライはどうして?」
「…青の魔力の所為なんだ」
ヨウがゆっくりと、窓の向こうに広がる闇に視線を移す。
月明かりがとても明るい。
空は完全に夜へと変わっていて、微かに虫の音が聞こえる。
「青の一族の女性が特に、魔力が強いのは知ってるでしょう。青の魔力は20歳をピークに増え続けるんだけど、特に顕著に増えるのが満月の夜なんだ」
そう言われてスイが外を見れば、確かに大きく丸い満月が夜を支配していて、その存在は圧倒的だ。
「……これは秘匿事項なんだけど、満月の夜に彼女たちの魔力は著しく増えて、更に、本人の意思に関係なく眠りについてしまうんだ。だから、彼女たちは満月の夜に特に狙われてきた。今では誰も知り得ない情報だけど、」
ヨウもまた、お茶に手を伸ばし口をつける。
「スイくんには言っておいた方が良いと思って」
青の一族についての情報は、七桜家に厳重に管理されている。
国側も知り得ないことが、きっと他にも沢山あるのだろうとスイは思った。
「……それと、面倒な要請もあってさ」
「要請、ですか?」
いつもの柔らかな雰囲気から一転、ヨウは僅かに苛立ったように胸元から茶色い封筒を取り出してスイに手渡す。
「これは?」
「読んでみて」
既に開封されている封筒から、スイは一枚の紙を取り出して広げた。
「……魔物討伐?」
少し光沢のあるその白い紙は、ライ宛だった。
国家魔術師として魔物討伐を命ずる、と国の紋章が押されている。
「そう。ライが施設を出る条件のひとつに、国家魔術師としての義務を果たすこと、だってさ」
魔力暴走を起こしたライを保護していた魔法施設を出る際に、国から条件が幾つかあった。
そのうちのひとつが、国家魔術師の称号を与え、魔物討伐を行うこと、だった。
魔術師の中でも、更に高等な技術を要する魔術を使いこなす者たちは国家魔術師と呼ばれる。
国からも認められた彼らは、度々現れる魔物の討伐を請け負い、代わりに国からは莫大な費用が支払われていた。
「一生、あの施設の中で生きていく訳にはいかない。だから、父上が魔力制御の訓練を施した。それは確かに、国家魔術師としての技術に相応する。それを逆手に取られて、国はライに国家魔術師の称号を与えたんだ。そうしたら、思うように使えるから。いざとなれば、ライは兵器にもなり得る。矛盾しているでしょう?要人として護衛もつかせてるのに、国家魔術師として討伐をさせるなんて」
他国には取られたくないけれど、かと言って、魔物討伐で生き絶えるならば、それをもやむを得ないという国の考えが透けて見える。
つまり、青の一族は国にとって厄介な存在だった。
強い魔力を持つライがもし他国に奪われたならば脅威であるが、自国に居る間は安寧なのだと。
「……勝手な話ですね」
そうやって、青の一族は少しずつ少しずつ、絶えていったのだろう。
利用されて、挙句には疎まれて。
世間が知り得る一族の歴史よりもきっと、現実は遥かに凄惨なものなのだろうとスイは胸が痛む。
「……国家魔術師の称号を得てしまっている以上、拒否は出来ない」
「……そうですね」
「……申し訳ないんだけど、スイくんも、一緒に行ってくれる?」
遥か昔、国立軍は他国から自国民を護るために設立されたものだった。
ここ数百年の間に現れるようになった魔物の討伐は、その全てを魔術師が請け負っている。
軍人と魔術師の仕事内容ははっきりと区別されていて、魔物討伐に国立軍は関知しない。
だから、スイも勿論、魔物を見たことも無かった。
「ライは父上と一緒に何度か魔物討伐をしたことがあるから、大丈夫だと思う。だから、スイくんは変わらずライの護衛をして欲しい」
ひとたび、戦争が起これば軍人は召集されるのだろうけれど、最近では国の情勢は落ち着いていて、そんな気配は皆無だ。
それに反比例するように魔物の出現は増えていて、魔術師は少しずつ数を減らしている。
「……いいかな?」
ヨウのその赤い瞳が、自身に向けられていることにスイははたと気が付いて、慌てて頷いた。
「もちろんです」
「そう、良かった」
ヨウは再び湯呑みを手に取ると、口につける前にスイをじっと見つめた。
ヨウの真っ赤な瞳が、スイを真っ直ぐに貫く。
「……?」
「……これからもきっと、こういうことがあると思う。それでも、本当にライの護衛でいいの?スイくんなら、もっと……」
「ヨウ様。ライの護衛につくことは、俺自身が望んだことです」
ヨウが何を言いたいのか察して、スイはヨウの言葉を途中で遮った。
スイほどの実力があれば、もっと別に相応しい仕事があるだろうに、とヨウは思う。
それでも、スイは頑なにあの時からずっと、ライの護衛になりたいと望んでいたことをヨウはモクから聞いていた。
「……そうだったね。じゃあ、よろしく頼むね」
「はい」
ヨウは真っ直ぐに自身を見つめてくるスイが、いつかのヨウと重なって見える。
今はもう、この手に触れることすら叶わない、心から欲した彼女と出逢ったあの時のヨウと。
夜の支配者となった満月がそっと、ふたりを照らしながら見つめていた。
――