月を見上げて
結婚式をする前、ライが魔力をなくした後のお話です。
――透きとおるような空気が、ふたりを包む。暗い森を抜けた先にある湖には、まん丸な月が映っていた。水面が風に揺れて、月が歪む。
厚くて広い胸、鍛えられた逞しい腕が後ろからライをすっぽりと包み込んでいた。膝を抱えて座るライの目の前にある、骨ばった長い指に自分のものを絡ませる。ふたりの指が絡まったそれを、顔の高さまで持ってきて頬に擦り寄せた。
「……今日はやけに甘えるな」
すぐ背後で、スイがクスリと笑ったのが分かった。
――だって。
国外の任務に出ていたスイと会えたのは、3日ぶりだった。たった数日のはずなのに、まるで何年にも感じられるくらいにスイが恋しくて堪らなかった。学校での授業なんてまるで頭に入らなかったくらいに、ライの頭の中はスイでいっぱいだった。
「……すごく淋しかった」
呟けば、スイがライを包む腕に力が入る。
「…俺も」
「本当?」
「ああ、だから、早くふたりきりになりたかった」
月の映った湖は暗く、ゆらゆらと揺らめいている。耳元で囁く低い声に、ライはちらりと後ろに座るスイを盗み見た。スイは空を仰いでいたけれど、ライの視線に気付くと触れるだけの口付けを落として微笑んだ。そんな些細な仕草ひとつひとつが、更にスイを好きにさせているなんてきっと本人は知らないんだろう。灰色の瞳が月明かりできらりと光った。
――今晩スイが任務から帰ってくるというから、ライは浮き足立つ心を抱えながら彼を待っていた。玄関の扉が開く音が聞こえた途端、手に持っていた全く内容の入ってこない本を投げ捨てて部屋を飛び出した。
『スイ! おかえり!』
上着を手に持って立っていたスイを視界に入れた瞬間、胸が高鳴ったのが分かった。
――やっぱり、かっこいい。
最近また切り揃えた短い黒髪に、灰色の瞳。長い手脚に、服の上からでも分かる引き締まった体躯。身に纏う制服は、国立軍のものだ。
『ライ、ただいま』
そう言って柔らかな表情を見せるスイに、ライの心臓は忙しなく動き続ける。トウやソウが、スイのことを「素敵だ」と繰り返すけれど、確かにそうだなと改めて実感する。しかも、そんな人が自分の婚約者だなんて。
――未だに、信じられないくらい。
『ライ?』
スイの窺うような視線に、ハッと我に返る。
『ご、ごめん。ちょっとボーっとしてて』
『…大丈夫か? どこか具合が悪いのか?』
『え? ううん! 大丈夫、何もないよ』
心配そうなスイの声色に、ライは慌ててスイの手を取った。
『スイこそ、早く中に入って』
『ライ』
名前を呼ばれて、引っ張ったはずの掌をスイに優しく引かれる。不思議に思ってスイを見上げれば、やっぱり柔らかく微笑んでいた。――また、そんな顔で笑うから。きっとライの顔は真っ赤な筈だ。それに気付いているのかいないのか、スイの切れ長の瞳が細められた。
『大丈夫なら、……月を見に行かないか?』
『……月?』
『そう、今夜は満月だから』
門の前に繋いであった馬に乗せられて、森を抜けた先にある湖へとやってきた。馬に乗るのは初めてだったけれど、スイと一緒ならちっとも怖くなかった。
「…私、満月を見たの初めて」
「だろうな」
青の一族の血を引くライは、満月の夜に必ず眠ってしまう。月に一度、その夜に著しく魔力が増えるからだ。でも、魔力がなくなった今、ライが眠ってしまうことは無くなった。莫大な魔力を手放した引き換えに、ライは本当の自由を手に入れた。ライは生まれて初めて見た、灯りなんて必要ないくらいに周りを明るく照らす大きな月を見上げる。
「……綺麗」
「ずっと、ライに見せてあげたいと思ってたんだ」
「……スイ、ありがとう。すごく嬉しい」
言って、スイに体を預ければ、揺るがなく確かな力強い温もりがライの身も心も包み込んでくれる。人の体温がこんなにも温かくて気持ちの良いものなんだと、教えてくれたのはスイだ。
「これからは、何度だって見られる」
「うん、また連れてきてくれる?」
顔をずらしてスイを見上げる。スイはやっぱり優しく微笑んでいて、「ああ」と頷いた。
――幸せって、こういうことなんだ。
学校に行けば、「ライ様!」と駆け寄って来てくれる友人がいる。スイの帰りを今か今かと待っていれば、「まだ今日出たばっかりだぞ」「早く寝るんだよ」と気に掛けてくれる家族がいる。もう、ひとりがいい、なんて強がりを言わなくてもいい。
――ひとりじゃない。
初めて見る満月は、とても明るくて大きかった。欠けたところのない月みたいに、ライの心も完全に満たされていた。
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