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その瞳が映す景色に、  作者:
第一部
33/40

その瞳が映す景色に、私は居たい。


 この冬、初めての雪だった。


 低く濁った空から、はらはらと舞い落ちるその白を見上げれば、スイの胸はきゅう、と締め付けられる。


 あのあと、ヨウとハクが、トウの研究所に駆け付けて、ライは七桜家の屋敷へと運ばれた。


 姿を消したサラは七桜家の敷地内に倒れていて、ヨウが見つけて暫くして、息を引き取ったのだと涙ながらにヨウは言った。


『突然、庭の奥の方が光ったから行ってみれば、驚いたよ。……まさか、サラにもう一度、会えるなんて、思ってもみなかった』


 そう言ってスイを見るヨウの赤い瞳が細められたのは、もう幾日も前のことだ。


 その表情はとても柔らかいもので、何故だろうか、サラとよく似ていた。


 スイは空から視線を下ろすと、真っ直ぐに歩き出した。


 トウはヨウによって拘束されたのち、国立軍の最も深い地下にある独房へ入牢(じゅろう)された。


 これから、調査のあと、彼の犯した罪の裁判が行われるだろう。


 参梅家は国によって断絶され、数多くあった分家は藤壱家、伍菊家、七桜家に振り分けられたと聞く。


『こんな、こんな筈じゃ、無かったのに……!』


 最後まで、苦しそうに、そう呟いていたトウをスイは思い出す。


 愛しい人が目の前から居なくなってしまう現実は、自身の身を切るよりも辛い。


 その気持ちは少し、分かるような気がした。

 

 酷く、冷たい風がスイを撫でていく。


「……ライ」


 スイは、眠り続ける愛しい人の名前を呼んだ。


 ライはあの日からずっと、眠り続けている。


 ヨウによれば、いつ目が覚めるか分からないのだという。


 青の魔力は殆ど感じられず、眠り続ける理由が分からないらしかった。


「……スイ、こんな所に居た!」


 スイは今日もまた要人の護衛に出ていて、今しがた国立軍へと戻ってきた。


 数日かかったその任務は、国外へ向かう際の護衛で、無事に送り届けてきたところだった。


「…クウ」


 第一軍の執務室へと向かって歩いていたスイに駆け寄ってきたのは、クウだった。


 ふわふわとしたクウの髪の毛を飾るみたいに、雪が乗っている。


「スイ、落ち着いて聞いてね」


 息を整えたクウが、スイを真っ直ぐに見つめる。


 そんなクウの真っ赤な瞳をただ、スイはぼんやりと眺めた。


「…なに」


 雪の匂いが風にのって、仄かに香る。


「……スイが任務に出ている間に、ライちゃんの、目が覚めたんだって」

「……は」


 スイは、灰色の瞳を見開いた。


 その言葉の意味を正しく理解すると、スイは再び来た道を戻り、走り出した。


「あ!スイ!」


 スイの後ろでクウの慌てたような声がした。


 けれど、もう、スイは止まれなかった。


 ただただ、待ち続けた、この日を。


 七桜家の屋敷までの道のりが、とても遠く感じる。


 舞い落ちる雪が、走るスイの顔にぶつかる。


 漸く、七桜家の屋敷まで辿り着いた時には、スイの濃紺の軍服は雪に塗れていた。


 でも、不思議なことに寒さはまるで感じない。


「スイくん」


 屋敷の玄関を開ければ、スイの姿を確認した使用人が呼んだのだろう、奥からヨウが歩いてくる。


 スイは三和土(たたき)から、ヨウを見上げた。


「…ヨウ様、ライの目が、覚めたって」

「……うん。……いい?スイくん」


 含みのあるヨウの声にだろうか、それとも走ってきたからだろうか、スイの背中を冷たい汗が流れる。


「……なんですか」

「……ライは、記憶を、無くしているみたいなんだ」

「……え?」


 スイは、一瞬、息が詰まる。


「…自分のことはおろか、今まで関わりのあった人、全員を、憶えていない」


 どくり、とスイの心臓が、嫌な音を立てた。


「……それ、は、」

「…自分の名前も言えなかったし、僕のことも、フウとカイも、ハクのことも、憶えていないんだ」

「……」

「……多分、スイくんのことも」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃が、スイを襲った。


 ――憶えて、いない?


「……ライに、会わせて、もらえますか…?」


 スイの口をついたその言葉は、殆ど無意識だった。


 スイを憶えていなくても、それでもただ、ライに会いたかった。


「…離れのあったところに、居るよ」


 居た堪れないと言わんばかりに、スイから視線を逸らして、ヨウが小さく呟く。


 今は無い、ライが10歳まで過ごした離れは、リビングから見える庭の先にあった。


「……わかりました」


 スイは再び外に出て、離れのあった場所に植えられた大きな桜の木を目指して歩き始めた。


 早く行きたいと確かにそう思うのに、スイの足はもつれて、前に進めているのか、よく分からない。


「……」


 真っ白な雪が舞う、いつかと同じその状況に、スイは、はたと足を止めた。


 もし、本当に、ライがスイのことを憶えていなかったら。


 そう考えると、怖くて、スイは手が震えた。


 忘れ去られる、ということが、こんなにも恐ろしいことだと思わなかった。


 ただ、生きてさえいてくれれば、それだけで良いと思っていた。


 でも。


 でも、やっぱり、スイのことを好きだと言って欲しい、微笑んで欲しいと、心から望むスイが居る。


「ここに、ライが過ごした離れがあったんだって。憶えてる?」


 小さく聞こえた、聞き覚えのあるその低い声に、スイは少し先にある、葉の無い桜の木を見据えた。


 その声はハクのもので、ハクの直ぐ側には、こちらに背中を向けたライが居た。


 トウによって切られた銀色の髪の毛は肩で揃えられていて、ライの表情は窺えない。


「……ううん、分からない」

「…そっか」


 ライがゆっくりと、大きな桜の木を見上げる。


 その横顔に、スイはどうしてだろう、視界が歪んだ。


 短くなった銀色の髪に、青い瞳。左目しか見えないけれど、あの夜に限りなく白に近くなっていた瞳は以前と同じ薄い青色をしていた。


 はらはらと舞い落ちる雪の中に佇むライから、スイは目が離せなかった。


「……ライ」


 スイは無意識のうちに、愛しい彼女の名を呼んだ。


 スイの声が聞こえたのだろうか、ライがゆっくりと、スイへとその顔を向けた。


 真っ直ぐにスイを見る青い瞳は、左右の濃淡の差が無くなって両方共が同じ色彩を持っていた。


 スイの灰色の瞳と、ライの青い瞳が逸らされることなく、重なる。


 ふたりの間を、雪が舞う。


 スイの止まった時が、ゆっくりと、再び、動き始めたような気がした。


ーーー


 ずっと、誰かが、呼んでいる。


 目の前に差し出された大きな掌を、掴むことが出来ないでいる。


 ライは意識が戻ってから、目に映る全てがあやふやで、曖昧だった。


 自身のことも、入れ替わり会いにくる誰もが、分からない。そう言えば、皆が眉を下げて悲しそうに微笑んだ。


 そんな顔をしないで欲しいのに、彼らが望む答えを口にすることが出来ない。


「……私の名前は、七桜ライ」


 そう口にすることで、自身の名前はライなのだと言い聞かせる。


 なんとか思い出したいと思うのに、それなのに、このままで良いのだと、どこか頭の片隅で誰かが囁く。


「……あれは、何の木ですか?」


 暖炉に焚べられた炎が揺れるその部屋の大きな窓から、不意に見えた、大きな木。


 空が泣くみたいに雪が舞い落ちる中、ぽつりと立っているその木がどうしてだろう、ライはやけに気に掛かった。


「…ああ、あれは桜の木だよ」

「…ライ、気になるなら、見に行ってみる?」


 ヨウの隣に座るハクが、微笑んでライに尋ねる。


 ライはその言葉に頷くと、ハクと共に冷たい雪の舞う庭に出た。


 薄く雪の積もった地面を歩く。


 ライは歩きながら、今日までに聞いた“ライ”という自身のことを思い浮かべた。


 青の一族の血を引くということも、強い魔力を持つということも、まるで実感が湧かない。


 青の一族の証とも言われる、左右で濃淡の違う青い瞳は両方が同じ色をしているし、自身に魔力は殆ど感じない。


「ライ、ここだよ」


 はたと、ハクの声が聞こえて、ライは立ち止まった。


 その大きな木は、殆どの葉を散らしていた。


 桜の木を見上げても、その先の濁った空から雪が舞っているのが見えるだけで、何も思い出せなかった。


 ずっと、誰かに逢いたいと、思っているのに。


「……分からない」


 それが、誰なのか、思い出せない。


「……ライ」


 不意に、静かなその場に響く、低く小さな声が、ライの名を呼んだ。


 ライはゆっくりと、その声のする方へ顔を向ける。


 少し癖のある黒い髪には、舞い落ちる雪が彩りを添えていた。


 そこに立つ背の高い彼の瞳は、灰色だった。


 その灰色の瞳と目が合った瞬間に、光が走るみたいに、ライを衝撃が貫いた。


「……スイ?」


 自身の名前すら憶えていなかったのに、ライを真っ直ぐに見つめる彼の名前が、無意識に口をつく。


 そう呼べば、少し遠くで、彼が息を飲んだのが分かった。


「…スイ」


 ライはゆっくりと、まるで導かれるみたいに、真っ直ぐにスイの元へと向かって歩き始めた。


 歩いていく途中で、ライの視界は滲んで霞む。


 はっきりと思い出した。


 自身のことよりも、何よりも、ただスイのことだけを。


 ライの身を投げ打ってでも、生きていて欲しかった、愛しい人。


 今、やっと、分かった。


 ずっとずっと、スイを、探していた。


「スイ」


 ライはスイの目の前まで来ると、ゆっくりとスイを見上げた。


 やはり、灰色の瞳は、とても美しかった。


 彼を、スイを、確かに憶えている。


 スイの揺れた瞳が、ライを見下ろした。


「……スイ」

「……憶えていないんじゃ、無かったのか?」


 呟くスイの声は、震えていた。


 ライは一歩、更にスイに近付くと、スイの頬に手を添えた。


 大きなスイの頬は、とても冷たかった。


「…スイ、ずっと、逢いたかった」

「……っ」


 ライがそう言って微笑めば、スイの揺れる瞳から一筋、綺麗な涙が零れ落ちた。


「……スイ、泣かないで。ずっと、忘れていて、ごめんね」


 ライは、その涙を優しく拭う。


 スイの雫は、温かかった。


「…スイ、好きだよ」


 ライがそう口にした瞬間に、力強い腕に抱き寄せられた。


 スイの香りが、ライを包む。


 夢と同じ、その温もりに、ライは頬を寄せた。


「……ライ」

「…うん」


 ライに差し出された掌は、スイのものだ。


 いつだってスイが、ライを探してくれる。


「…ずっとずっと、逢いたかった」

「……私も、逢いたかった」

「…ライ、好きだ」

「…私も」


 そう言えば、ライの唇に懐かしく、柔らかい温もりが降ってくる。


「…ライ」

「スイ」


 お互いの名を呼んで、ふたりは見つめ合った。


 はらはらと舞い落ちていた雪が、今までもこれからも、ふたりを優しく彩っている。


ーーー


 優しい温もりが、ライを力強く抱き締めている。


 温かなその中はとても、心地良い。


 ライはその温もりに擦り寄って、微笑んだ。


 そうすれば、更に強く抱き締められて、ライは、はち切れそうな程の幸福に包まれる。


 これは、夢じゃない。


「……ライ」


 幾度、忘れてしまっても、必ず思い出す。


 この声は、ライの大切な、愛しい人のものだ。


 ライはゆっくりと、瞳を開けた。


 目の前にはスイが居て、灰色の瞳は、ライだけを映している。


「…スイ」

「……良かった、ライの目が、覚めなかったら、どうしようって、」


 ライはスイのその言葉の続きを、自身の唇で遮った。


「……大丈夫、そうしたらまた、スイが探しに来てくれるでしょう?」


 囁くようにそう言えば、スイは僅かに瞠目したあと、ライの桃色の唇にそっと、キスをした。


「……うん、何度だって、ライを迎えに行く」


 そう言って、スイの灰色の瞳が細められる。


 ライは、スイのその表情がとても好きだった。


 記憶を無くしてからも、この灰色の瞳だけは憶えていた。


 この瞳が映す景色の先には、いつだって、ライが立っていたい。


「……でも、もう、忘れるなよ」


 スイとライは、互いに頬を擦り寄せて、笑った。


 朝が届いて、空が澄んで、また、はじまりが始まっていく。


 これからも、この先も。


ーーー

最終話まで読んで頂き、ありがとうございました。

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