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大きな湖面を撫でるように吹く風が、ライの長い髪を揺らす。
深緑の髪紐が、銀色に結ばれている。
ライはそっと、耳飾りを外した。
魔力暴走を繰り返したライの左の手首には、新たな魔力制御の為の腕輪が付けられていた。
湖面は、波立っている。
ライがそっと、波紋に揺れる湖面に立ったのを見計ったように、白波を引き連れて現れた魔物は、いつか見たような鯨のような形をしていた。
ライの意識は、まだ、はっきりとしている。
蝉の声が直ぐ近くに、確かに聞こえる。
ライがその手を魔物へと向けて魔力を込めた瞬間、ライの体は湖の中へと引き摺り込まれた。
「……っ!」
――息が、出来ない。
普段なら、水の中であっても空間を作ることなど容易い筈なのに、今はどうしてだろう。
上手く、操れない。
ライの体の中で、魔力が渦巻いて定められない。
ライの足が何かに強く引っ張られて、浮かび上がることが出来ない。
ライの口から、気泡が溢れる。
空気が出て行く代わりに、水が止めどなく入ってくる。
――だめ、かもしれない。
そう思ったら、堪らなくスイに会いたくなった。
最期に見るなら、スイが微笑んでライを見つめてくれる夢が良い。
――スイ。
薄れゆく意識の中で、もがくライの手を、誰かが強く握る。
足を引かれるその力よりも、もっと強い力で引っ張られる感覚だけがライに残って、ライは意識を手放した。
ーーー
「……けほっ、」
息苦しさと共に、ライは目が覚めた。
ライは体を僅かに起こして、咳き込む。
小さな草が生える地面が、眼前にあった。
「……起きたか、ライ」
ライに掛けられた低い声は、ライが焦がれた人のものだ。
間違えることの無い声に、ライは地面を見る顔を上げられないまま、動くことが出来なかった。
――うそ。
真っ白な世界で何度も、ライのことが嫌いだと繰り返した、その声。
「……ライ?」
これは、また、夢なのだろうか。
夢の中での酷く冷たい声とはまるで違う、ライのことを心配するような優しいスイの声に、ライはこれが現実なのか理解が追いつかない。
「…ライ、大丈夫か?」
再三掛けられる声に、ライはゆっくりと、その顔を上げた。
切れ長の灰色の瞳は心配そうにライを見ていて、やはりそこに居るのは間違い無く、スイだった。
スイが着る国立軍の制服はびしょ濡れで、スイの黒い髪の毛からは水が滴っている。
「……スイ?」
「…うん」
どうしてここに、そう思うのに、ライの唇は開くばかりで声が出ない。
「……ハク様が教えてくれた。この湖で討伐だって」
「…ハクが?」
ライの疑問を察したのだろう、スイがライを見つめて言った。
「…ライが湖の中に沈んだときは、肝が冷えた」
「……」
「…間に合って、良かった」
スイの灰色の瞳が細められて、ライの頬をスイの大きな掌が包む。
水に濡れて冷えたライの顔に触れるスイの温もりが、とても暖かった。
ライは耐え切れず、スイから顔を逸らして俯いた。
そっとスイの温もりが離れていく。
まさか、もう一度、本物のスイにこうして会えるとは思っていなかった。
ライの瞳がじわりと、熱を持つ。
ライが魔力暴走を起こしてから、真っ白な世界の夢に現れるのは、いつだってスイとスイに寄り添うコウだった。
微笑み、見つめ合うふたりを見たくないのに、逸らすことすら出来ずに、苦しくて苦しくて、ライの魔力が安定するまでにかなりの日数を要した。
「……ライ」
俯くライの頭上から、スイの低い声が聞こえる。
夢の中でライを呼ぶ声と同じそれに、ライは顔が上げられなかった。
もし、実際にスイの灰色の瞳が歪められていたらと思うと、怖くて、とてもスイを見ることが出来なかった。
「……俺、ずっと、考えてた」
ライは返事も出来ないまま、スイの言葉が続く。
「…ライを護りたいのに、いつだって護られているのは、俺の方だ」
そんなことない、そう言いたいのにライは顔を上げることすら、言葉にすることすら出来ずに俯いたまま、ぎゅっと瞳を閉じた。
「この間の傷だって、ライが治してくれたんだろう?」
「……」
「ありがとう、ライ」
ふたりを、乾いた風が撫でる。
ライは俯いたまま、固く閉じていた瞳をゆっくりと開けた。
開いた視界には、緑に茂った草が映る。
「…魔力の無い俺じゃなくハク様のような人の方が、ライを護れるんじゃないかって、ライと離れた方が、良いんじゃないかって、何度も何度も、考えた」
ライが恐る恐るゆっくりと顔を上げた先で、スイはいつかと同じように真っ直ぐにライを見つめていた。
「でも、やっぱり、……諦められない」
風に揺られて、木の葉が音を鳴らす。
どうしてか込み上げる涙で、スイの姿が少しずつ歪んでいく。
「……俺のことが嫌いなったというなら、諦めるよ。でも、もし違うなら、今もまだ俺のことを想ってくれているなら、俺はライを諦めない。……諦めたくない」
ライの瞳に映るスイの姿が、重なって曖昧になる。
「……スイが、傷付くところを、見たくない」
ライがやっとの思いで口にした言葉は、掠れて震えた。
「俺も同じだよ。ライが傷付くところなんて、見たくない。しかも、たったひとりで、苦しむところなんて」
動けないライの手をそっと掬い上げて、スイはライをゆっくりと引き寄せて抱き締めた。
ずっと求めていたその温もりに、ライはまるで動けなかった。ライの視界が歪んで、滲む。
「……どうしたらいいのか、分からないの」
スイが傷付く姿を見るくらいなら、離れてしまう方が良いと思った。
けれど。
「……本当は、スイと一緒に、居たい…」
堪え切れずに、ライの瞳から涙が流れた。
一度、流れてしまったら箍が外れたように次から次へと溢れ出して止まらなかった。
「……でも、こわいの。スイが私の所為で、傷付いたらって、思うと、こわくてこわくて堪らない……!」
スイのシャツを握り締めて、ライは慟哭した。
「俺だって、そうだよ。だから、ライ。だからこそ、一緒に居よう。ひとりで抱え込まないで、ふたりで分け合おう」
「……っ、」
「ライ、好きだよ。嫌いになんて、なれる訳が無い」
ライの青い瞳から止めどなく溢れる涙を、スイの大きな掌が拭う。
鼻先が触れそうなくらい近くで、ライとスイは見つめ合った。
「……私も、……好き」
ずっとずっと、スイのことが好きで堪らない。
隠し続けた想いは、いとも簡単に決壊した。
「…やっと、言ったな」
微かに笑ったスイの吐息がライの顔を撫でた。
「……気付いて、たの?」
スイのことが好きなのに、ライはその言葉を、今まで絶対に口にしなかった
口にしてしまったら、全てが変わってしまいそうでこわかった。
「うん。一緒に居たいとは言ってくれるけど、“好き”とは、ずっと言ってくれなかった」
「……」
「でも、今、ライの口から漸く聞けた」
スイが酷く穏やかな声でそう言うから、ライの涙は止まることを忘れたかのように流れ続ける。
「ひとりでずっと悩ませて、ごめんな」
囁くようにスイはそう言うと、ライの濡れる目元に唇を寄せた。
スイの顔がゆっくりと近付いてきて、ライは流れる涙もそのままに瞳を閉じた。
そっと、ふたりの唇が、重なる。
スイの顔が離れて、ライを見つめた。
「……スイ、」
スイの温もりが恋しくて、ライは灰色の瞳を見上げた。
「……ライ、煽らないでくれ、止められなくなる」
「…止めないで、」
もう、このままスイには会えないのだと、もう、再び自身の瞳は開かないのかもしれないと覚悟した水の中で、強く思ったこと。
――スイに、会いたい。
もっと、スイと話して、スイに触れて、スイの隣に居たかった。
巡る季節を共に、過ごしたかった。
死ぬかもしれないと思ったら、欲望が我慢出来なかった。
ライのことを、嫌いでも良い、罵られても構わないから、一緒に居たかった。
スイから離れるなんてことは、きっと、初めから無理だったのだ。
「……っ、」
そこまで言うと、スイが噛み付くようにライの唇を奪う。
まるでスイに飲み込まれてしまうかのような深いキスに、ライは苦しくも嬉しさで胸がいっぱいだった。
「……もう、会わないとか、言うなよ」
何度も唇を重ねたあと、スイがライを抱き締めて耳元で囁く。
ライはスイの胸元に顔を埋めると、確かに頷いた。
湖面に佇む魔物の体は、スイが突き刺した刀に貫かれていて、その動きを完全に止めていた。
まだ、蝉の声が、聞こえる。
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