15歳、初春。
あの日からもう5年も経ったのか、とライは屋敷の2階にある自身の部屋の窓から、更地になって久しいのであろうその場所を見つめる。
そこに離れがあったとは思えないような大きな桜の木が、季節を間違えることなくその薄紅色の花を咲かせている。
10歳を迎える数日前のあの日、ライは魔力暴走を起こした。
『ライ!逃げるんだ!!』
ライはゆっくりと、左右で濃淡の違う青い瞳を閉じる。
あれから幾つもの季節が通り過ぎたのに、視界を遮れば、まるで今もあの場に居るような錯覚に陥る気がした。
ライに訪れたコクとトキとの永遠の別れへの秒読みは、ふたりと共に離れの玄関を出たのと同時に、唐突に始まった。
どこからか放たれた魔術をコクが弾いて、瞬く間も無い程素早く向かって来た鋭い切っ先を、トキがいつの間に持っていたのか、小刀で受け止める。ライは目で追うことも、動くことすら、まるで出来なかった。
そこから先のライの記憶は所々が曖昧で、晴れていた筈の空からは何故か雪が舞い落ちていたことを、ただぼんやりと憶えていた。
トキが真っ赤に染まる雪の上にゆっくりと倒れた時だったのか、それとも、コクの赤い瞳がライを見つめたまま黒い人間たちに遮られて見えなくなった時だったのか。
まるで、大きな泡が弾けるみたいに、ライの体から魔力が溢れ出て大地を揺らした。
ライの記憶はその後、特に曖昧だった。
気付いた時には見知らぬ誰かに抱きかかえられていて、朧げなライを、灰色の瞳が心配そうに見つめていたことだけを鮮明に記憶していた。
――あの人は、誰だったんだろう。
再びゆっくりと瞳を開いたライは、記憶の中に住んでいる灰色の瞳の彼を思い浮かべる。
魔力暴走を起こした後、ライの祖父であるリョクが最高責任者を務める魔法施設に保護されたライは、離れに掛けられていた結界よりも更に強固な結界の中で日々を過ごした。
優秀な魔術師でもあるリョクの指導の下、魔力制御の訓練を受けて、5年の月日が経った数日前に、ライは漸く魔法施設から七桜家の屋敷に戻ってきていた。
「ライ様、お支度は整いましたでしょうか?」
「……今、行きます」
大きな窓から視線を外したライは、扉へと向かって歩き出す。
開いた先には屋敷に住まうようになってから度々見かける使用人が立っていた。
「皆様がお待ちです」
その言葉に、ライは内心首を傾げた。
国立学校に通うのだとライが聞かされたのは、屋敷に戻ってきたその夜に、父親だという人と、兄だというふたりと共に食事をした時だった。
物心つく頃から離れでコクとトキと生活していたライは、自分の家族という人たちを見たことが無かった。
双子だというそっくりな顔をしたフウとカイとは確かに、何処となく自分と面影が似ているとライは思った。
そんなふたりとなんとなく似ているヨウは、やはり父親なのだろうと思いながら、食事を口に運んだのを思い出す。
「ヨウ様。ライ様をお連れしました」
「うん、入って」
導かれるまま使用人を追いかけて開かれた扉の先が、誰の、どんな部屋なのか、ライには見当もつかない。
「ライ、こちらへおいで」
開かれた扉の前で動けないでいるライの名を、優しげなヨウの声が呼ぶ。
踏み入れた部屋の中でヨウの隣に座っている彼を視界に入れたライは、その一瞬、息が止まったように感じた。
――あの時の。
忘れることの出来ない、記憶の中と同じ灰色の瞳がしっかりとライを見つめていた。
「…どうしたの?ライ?」
「……ご、ごめんなさい」
音も無く使用人が閉めた扉の前で再び動けないでいるライに、不思議そうにヨウが声を掛ける。
はっとしたライは、慌ててヨウと、もうひとりの座る椅子に歩み寄った。
「ライも座って。話があるんだ」
「……はい」
ライはヨウの隣にいる彼の視線を感じながら、ふたりと向かい合うように座った。
何故か、ライの心臓が忙しなく音を立てて鼓動を早める。
ヨウはその優しげな顔をライに向けて、話し出した。
「ライが学校に通うにあたって、護衛を付けることになったんだ。彼は、藤壱スイくん。今日の入学式からこの屋敷に住んでもらって、専属でライの護衛に付いてもらう。スイくんは史上最年少で国立軍入りした天才だから、安心して生活出来ると思うよ」
「…ヨウ様、誇張しすぎですよ。俺は天才なんかじゃありません」
「何言ってるの、学校も飛び級で卒業して、たった14歳で完全に国立軍所属になったくせに」
「……そうですけど」
気安く話すふたりを、ライはただ見つめていた。
低くなってはいるけれど、スイの声が確かに、しっかりと、あの時の灰色の瞳の彼のものと重なる。
少し癖のある短い黒い髪に、色素の薄い灰色の瞳。
この国の軍人であることを示す濃紺の軍服を着こなす広い肩にしっかりとした体格、座っていても分かる長い脚。
「じゃあ、そういうことだからよろしくね。ライ、そろそろ行かないと入学式に遅れちゃうから、スイくんと一緒に向かってくれる?そんなに遠くないし、スイくんも居るから心配しなくていいよ。確か、近くで桜まつりもやってたから、帰りにでもスイくんと見ておいで」
微笑むヨウは立ち上がって、扉を開ける。
その後に続くスイの後ろを追いかけて、ライもまた部屋を出た。
「まだ慣れないことが多いと思うけど、スイくんに聞けばいいからね。じゃあ、スイくん頼んだよ」
「はい」
広い玄関には七桜家の家紋にも刻まれている桜の枝が活けられていて、仄かにその香りがライの鼻を撫でる。
ヨウはまた微笑んでそう言うと奥へと戻って行って、玄関にはライとスイだけが残された。
「ライ」
学校指定の靴を履き三和土に立ったライの名を、スイの低い声が呼ぶ。
その声に顔を上げれば、スイの切長の灰色の瞳が真っ直ぐにライを見下ろしていた。
こうして並んで立ってみると、スイは本当に背が高かった。
「俺のことはスイでいい。敬語も要らない」
そこまで言うとスイはゆっくりとライの前に跪いた。
灰色の視線は逸らされることなく、ただ真っ直ぐにライに向けられている。
その真摯な程真っ直ぐな瞳に、ライは何故か、心が騒つく。
「…環境も変わって、俺とは会ったばかりでいきなり護衛なんて、不安だとは思う。でも、何があってもライのことは必ず護る。だから、俺のことを信じて欲しい」
痛いくらいに向けられたその視線を、ライもまた逸らせない。
言葉に出来ない、分からない感情がライの中で渦巻いて絡まる。
「……お願いが、あるの」
「うん」
「絶対に、」
何故かぼやける視界のまま、どうして涙が溢れそうになるのか分からないまま、ライは震えそうになる声を必死に堪えて言葉を紡ぐ。
「…絶対に、……死なないで」
あの雪降る日から、ライは自分を責め続けている。
まるであの日の雪が降り止まないみたいに、ずっと。
自分さえ、産まれていなければ、コクもトキも、死なずに済んだのに。
自分の所為で、誰かが傷付き、その未来が途絶えるのだと突き付けられたあの日からずっと、責め続けている。
そうしなければ、ライは生きていられなかった。
護られる資格なんて無いのに、ライのその身に流れる呪いのような青い血がそれを許さない。
何度、消えてしまいたいと祈り、願っただろう。
けれど、その願いは未だ叶わずに、再び誰かを巻き込もうとしている。
また、誰かを傷つけるのだと分かっているのに、スイの苦しいくらいに純粋な想いに胸が詰まる。
「……分かった。約束する、俺は絶対に死なない。片時も離れず、ライを護るよ」
無意識に力を入れ過ぎて冷たくなったライの手を、スイの大きく温かな掌が包む。
思わず、俯いていたライがゆっくりと顔を上げると、スイの灰色の瞳と重なった。
初めて誰かと交わしたその約束が絶対に破れませんように、ライはスイを見つめながら、そっと願う。
「行こう、入学式に遅れる」
スイはライの手を握ったまま立ち上がり、玄関の扉を開けた。
空は高くて、風はまだ少し冷たい。
離れがあった筈の場所に植えられた満開の桜が、いつかと同じようにはらはらと舞い散っていた。
――