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海辺を離れて、沢山の店が並ぶ通りへハクとライはやってきた。
近くにはお菓子屋があるのだろうか、甘い香りが漂っている。
「スイ様が気になる?」
「……え?」
未だライの右手を掴んだままのハクを、ライは見上げた。
施設に居た頃よりも背が伸びただろうか、ハクの赤い瞳の位置が高いような気がした。
「よく、後ろを気にしてるから」
「そんなこと、」
ハクはライの手を引いたまま、立ち並ぶ杉の木の元に備えられている長椅子に腰を下ろした。
そんなハクに導かれるようにライもハクの隣に座る。
今日もまた、昨日と同じく少し強い風が吹いている。
「ライ、施設に来たばかりの頃のこと、覚えてる?」
その言葉に、ライは忘れることの出来ない濁った空を思い出して、また心の何処かにある深い傷が疼く。
「あの頃、ライはずっと無表情でさ。いつもどこか上の空で、いつも泣き出しそうな、そんな顔をしてた」
鮮やかな黄色にも橙色にも見える金盞花が、風に踊っている。
「僕が必死に笑わせようとしても、その青い瞳に涙の膜が張るだけで全然笑ってくれなかった。だけど、久しぶりに見たライは、すごく柔らかい表情でスイ様を見つめてたよ」
真っ直ぐに前を見ていたハクが、静かにライに視線を移した。
ハクの髪の毛が風に揺れる。
「スイ様のことが、好き?」
その言葉に、ライは俯いた。
「……分からない」
ライに、好きなものなんて、無かった。
自由のないライには、与えられるものが全てだったから。
自身で選ぶことなんて皆無で、それが当たり前だと、そう思っていた。
「……それがどういうものなのか、分からない」
好き、なんて感情、今まで感じたことなど無かった。
それなのに、近頃、ライの胸を熱くしたり苦しくしたり、この忙しなく動く感情の正体は何なのだろう。
「好きっていうのはね、その人のことばっかり考えて、いつも一緒に居たくて、傷付いて欲しくなくて。その人のことを、大切に想う気持ちだよ」
ライの頭に、スイが過ぎる。
跪いてライを真剣に見上げるスイ、ライの髪の毛を綺麗だと言って微笑むスイ、不機嫌そうに眉を顰めるスイ。
この短期間で色々なスイの表情を見てきた。
そんなスイを思い浮かべるだけで、ライの胸はとても苦しくなる。
「……スイ様のこと、好きなんでしょ?」
ライは何も言えないまま、ハクを見つめた。
そんなライの姿に、ハクは全てを察したように溜息を吐く。
「……僕だって、ずっとライのこと好きだったのにな」
「え?」
「僕もずっと、初めてライと出会ったあの日から、ライのことが好きだったんだよ。好きじゃない子を笑わせたいなんて思わないよ」
朗らかに笑っていたハクとは変わって、ハクは真剣な顔をしてライを見つめた。
「……でも、遅かったみたいだね。ライと一緒に居た時間なら、僕の方が長いのに」
「……ハク」
「いいんだ、こればっかりは仕方ないよ。人の心は縛れないからね。ただ、僕にもまだチャンスがあるなら、その時は全力でライの心を僕に向かせてみせるよ」
「……ハクは、強いね」
俯いて呟いたライに、ハクの赤い瞳が向けられるのが分かる。
「……私は、弱い。……スイはただ、私が護衛対象だから一緒に居てくれるだけで、だから、いつか、嫌になって護衛を辞めたいと言われたらって思うと、とてもこわい」
スイがもし、危険を伴う青の一族の護衛を辞めたいと言い出したなら、ライにはスイを引き止める術は無い。
スイのことを想うのならば、離れた方が良いと頭では分かっているのに。
「ライ、人の心は分からないよ。スイ様が何を考えているのかは、スイ様にしか分からない。スイ様の心を決めつけるのは、まだ少し早いと思うけどな」
ハクがまたその赤い瞳を細めて、ライを見る。
「ライにはいつでも笑っていて欲しいし、幸せになって欲しいと、僕は思ってる。困ったときは頼って欲しいし、心配させて欲しい。ライはひとりじゃないってことだけは、憶えておいてね」
ハクはそう言って微笑むと、立ち上がってライを見下ろした。
「よーし。じゃあ、何かライの好きなものを探しに行こうか。これから沢山、好きなものを見つけたらいい。世界はとても、広いんだから」
きっと以前のライなら、差し出されたその掌を取ることが出来なかった。
でも、今なら迷いなく握り返すことが出来る。
少し手を伸ばせば、ハクが強く引っ張り上げてくれる。
世界は案外、優しいのだと、ライは知ったから。
「……ハク」
「なにー?」
「ありがとう」
歩き始めた濃紺の広い背中にそう言えば、ハクが振り返ってライを見た。
ライは、自然と自身の口角が上がるのが分かった。
「どういたしまして」
そんなライを見て、ハクもまた、柔らかく微笑む。
「ハクも、私にとって、大切な人だよ」
ライは本心から、そう思う。
施設に保護されたばかりの頃、何かにつけて話し掛けてくれるハクにどれだけ救われていたか、きっとハクには分からないだろう。
ふとすれば、涙が溢れそうになるライを、責める訳でもなく、薄っぺらい慰めを口にする訳でもなく、ただ頭を撫でてくれたその温もりをライは一生忘れない。
「それは、光栄だ」
あの頃と同じように、ハクは微笑んでライを見下ろす。
ふたりを送り出すように、黄金色の金盞花たちが花開いていた。
ライが白雲の屋敷に戻ったのは、青い空に薄く茜色が混ざる頃だった。
出迎えたシンに挨拶をすると、都まで帰るというハクはライの頭を撫でて来た道を戻って行った。
「シン様、あの、スイは何処に?」
ライは玄関で靴を脱ぐ。
会いたくて仕方ないその人の居場所を尋ねれば、シンは柔らかく微笑んだ。
「スイ様なら図書室に居るかと。廊下の突き当たりを左に曲がったところにあります」
「分かりました。ありがとうございます」
「いいえ」
微笑むシンにお礼を言うと、ライはハクと共に買ったその荷物を手に持ち庭の望める廊下を歩く。
どうしてだろう、ライはひとり思う。
今までひとりが当たり前だったのに、少し離れただけで、こんなに会いたくて仕方なくなるなんて。
開け放たれた扉の先には、均等に並ぶ本棚に書物が数え切れないくらいに埋められていた。
書物の独特な香りがライの鼻を擽る。
レースのカーテンが引かれていて、少し薄暗いその部屋の中にスイは居た。
そう多くないソファが置かれていて、ふたり掛けのソファにスイは座っていた。
「……スイ」
ライからはソファに座るスイの少し癖のある黒髪しか見えない。
そっとスイの名を呼ぶけれど、反応が無い。
ライはゆっくりと、その背中に近寄った。
「……スイ?」
そっとスイを覗き込む。
いつもライの手を握るスイの手には本が握られていて、スイの灰色の瞳は閉じられている。
どうやら眠っているらしいスイの隣に、ライは静かに腰を下ろした。
スイの、こんな無防備な寝顔を見るのは初めてだった。
ヨウの魔術に加えて、フウとカイも結界を張っているから屋敷内ならそれなりに安全な筈なのに、いつだってスイは、ライが眠る為に自室に入るまで自身は休まないから。
程よく日に焼けた肌に、高い鼻筋、薄いけれど整った唇。
いつもライを見つめてくれる灰色の瞳はしっかりと閉じられていて、長い灰色の睫毛が並んでいる。
規則的に上下するスイの大きな体にライはそっと寄り添う。
触れ合ったところからライよりも高い体温が伝わってきて、とても安心するのはスイが恋しいからだろうか。
「……スイ、好き」
無意識に、ライの口から想いが溢れた。
スイのことを考えると苦しくなる、この想いを認めてから、スイが恋しくて堪らなかった。
この気持ちを認めてしまったら、もう止まらなかった。
「……ずっと、一緒に居られたならいいのに」
そんなことは、不可能だけれど。
叶わない願いにライは苦笑した。
いつかきっと、スイは愛しい誰かを見つけて未来を共にするだろう。
その誰かは、ライじゃない。
ライが成人して護衛を必要としなくなるその時まで、スイと離れるその日まで、どうかスイと共に居させて欲しい。
ライは、静かに瞳を閉じてそう祈った。
レースの隙間から覗く空は、静かに夜を迎えていた。
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