はじまり
白と灰と、それと銀。
無色のようで、沢山の色が複雑に混ざり合う冬の庭には、はらはらと舞い散る花弁を思わせる雪が降っている。
「…ライ!」
その声は、誰のものだったのだろう。
酷く冷たい花弁が舞い落ちる中、ひとりの少女が微動だにせず蹲っている。
ーーー
代々、ゼン帝国国立軍の軍人を輩出してきた名家、藤壱家の次男スイは、同じく国家魔術師を輩出してきた名家である七桜家の執務室のソファに座っていた。
スイの父と同年代であろう七桜家当主ヨウと、スイと同年代である七桜家の子息フウとカイの双子たちと共に、ある少女を待っている最中にそれは起こった。
突然、地響きにも似た揺れが七桜家の大きな屋敷を揺らした。
驚き、慌てるスイとは別に、七桜家の彼らは何が起こったのか悟ったように、慌てながらも使用人たちに何かを言い付けている。
「スイ、一緒に来てくれるか?」
「…分かった」
スイと同じくらいの背丈である彼がフウなのかカイなのか、スイには一瞬見分けが付かない。
フウはそう言うと扉を開けて、既に部屋を出ていたヨウとカイに追いつこうと走り出した。
スイは、その背中を無言のまま追いかけた。
七桜家の屋敷には、当主であるヨウとその息子たちである双子、フウとカイが住んでいる。
母親は、末の娘を産んだ際に亡くなっていた。
「この先に、ライの離れがあるんだ」
七桜 ライ。
この初春に10歳を迎えるという彼らの妹は、青の一族である母親の血を濃く引いており、魔力が著しく強かった。
産まれたその日は屋敷中を凍らせ、産声は吹雪を呼んだという。
遠いベネット国に住んでいたと言われる青の一族は、世界の中でも極めて魔力が強く、その強さ故に狙われ続け、消費され続け、衰退の一途を辿り、現在確認されるその血を色濃く引く人間は、七桜家のライだけだった。
そんなライが10歳を迎え、春から国立の学校に入学する際に選ばれた護衛候補のひとりがスイで、この日はライと顔合わせの為に七桜家の屋敷を訪れていた。
七桜家の広い敷地の中に作られたその小さな離れは、ライを護る為に強固な結界が張られている。
離れに入ることの出来る人間は限られていて、七桜家の分家である白雪家からライの魔術の教育の為に通っていたコクと、まだ幼いライの身の回りの世話をする乳母のトキ。
ふたり以外は、ヨウの許可が無い限り、実の兄妹であるフウとカイですら、ライに会うことは許されなかった。
「…多分、あの揺れは、ライが魔力暴走を起こしたんだ」
玄関で靴を履き、屋敷を出て走り出すフウが、ぽつりと呟いたその言葉を聞きながら、スイはただ彼に付いていく。
庭に綺麗に咲いている花々や整えられた木々には、真っ白な雪が積もっていて、スイははたと考える。
――確か、今日は雪なんて降っていなかった。
「……ライだ」
不意に立ち止まったフウの視線の先には、白と灰と銀色が混ざり合っていて、スイには境界が無いように思えた。
そんな無の中で、ただひとり、周囲と同化するような銀色の髪を持つ少女が蹲っている。
更にその先には、はっとするくらい、鮮やかな赤が散らばっているのがスイの視界に入った。
そんな真っ赤に広がるその上に、横たわっているものは人間だろうか。
黒い、同じような服を着た数え切れない位の人間だったものを、先に着いていたヨウとカイが片付けていた。
「……フウ、急いで、父上を呼んで。スイくんは、ライを屋敷に連れて行ってくれる?」
「分かった」
静かに、しかし、はっきりと聞こえた低い声はヨウのもので、フウはそれを聞くなり再び屋敷へと走り出した。
スイはヨウの言葉に頷くと、蹲っているライに近付いた。
その小さな肩には冷たい花弁が、まるでライの存在を消してしまいそうな程に積もっている。
「……大丈夫か?」
ライを覗き込めば、左右で濃淡の違う大きくて青い、美しい瞳が虚ろに何処かを見つめていた。
スッと通った鼻筋、寒さで色を無くしてはいるけれど形の整った唇。
青の一族は総じて、美貌を持つというのは本当らしいとスイは密かに思った。
フウとカイも異様に整った顔立ちをしているけれど、この少女はまた別格だった。
今年、14歳になったスイは10歳の時に史上最年少で国立軍入りを果たしている。
代々、軍人を輩出してきた名家の出身なだけあって、スイのその体は年齢に似つかわしくなく鍛えられていた。
「…立てるか?」
今にも雪の中に消えてしまいそうなライに、スイはそっと問い掛けてみる。
しかし、ライは動く事を忘れてしまったかのように座り込んでいて、答えは返ってこない。
スイは仕方なく雪に埋もれているライの小さな手を取り上げれば、酷く冷たくて目を見開いた。
それでもやはり、ライは反応を示さない。
「……抱えるぞ」
ライは全く抵抗しないまま、スイに大人しく抱きかかえられて、スイはその冷たさと軽さに目を見張った。
生きているのか不安になるくらいに冷え切ったその体を、スイは思わず、強く抱き締めて屋敷へと歩き出した。
不意に、ゆっくりと、ライがスイの顔を見つめた。
その透き通るように青い瞳が、真っ直ぐにスイを見つめてくる。
「…どうした?」
スイのその言葉と同時か、つう、と流れ星が煌めくみたいに、ライの青い瞳から雫が流れた。
スイは居た堪れなくなって、ライを再び強く抱き締めた。
真っ赤に染まる雪の上に、数え切れない程に横たわっていたのは恐らく、ライを狙って侵入した者たちなのだろう。
黒い人間たちのその中に、ふたり、別の色の服を着た人間もまた、倒れていたことにスイは気が付いていた。
ふたりの衣服はぼろぼろで、流れ出ていた赤も他とは比べ物にならなかった。
きっと、ライを護っていた、コクとトキなのだろう。
分家から選抜されて離れに通っていたというコクも、年齢を重ねたトキも、魔術だけでなく剣の腕も相当なものだからこそ選ばれたのだと、カイが言っていたのをスイは思い出す。
そんなふたりが命を懸けて護り抜いたライを、スイはしっかりと抱きかかえた。
「…もう、大丈夫だから」
声も無く、ただ涙を流すライが、しがみ付くようにスイの首に腕を回した。
縋るように回されたその腕は、とても細く弱々しく、スイの胸に埋めるように押し当てられた頭は、今にも壊れてしまいそうな程に小さい。
冷たかった体はだんだん熱を取り戻したけれど、凍てついた心は果たして溶ける日が来るだろうか。
「スイ様、こちらです」
屋敷の玄関の外で待ち構えていたように、七桜家の使用人がスイの名を呼んだ。
スイは言われるがまま、屋敷の中に入り彼の後ろを歩いた。
「こちらがライ様のお部屋になります」
開けられた扉の向こうには、真新しい寝台や机などが並んでいる。
この春で、ライは離れを出て屋敷で家族と共に生活をする予定だった。
いつの間にかぐったりとしているライは、どうやら意識を失ってしまったらしい。
スイは、大きな窓の側に置かれた寝台の上に、ゆっくりとライを下ろした。
ライの銀色の長い髪の毛が、さらりと揺らめいて布団の上に落ちた。
「もう直ぐリョク様が到着する予定です。スイ様は、どうぞこちらへ。ライ様には別の使用人を付けます」
ヨウの父、リョクは都にある本家から離れた別邸に隠居して長いのだが、未だその影響力はとても大きい。
彼が屋敷に来る、ということはライはそのままリョクが管理する魔法施設に保護されるのだろうかとスイは思った。
スイは瞳を閉じたライを見つめる。涙の跡が残るその白い頬を、掌で拭ってやる。
スイは内心、言い表せない感情に戸惑っていた。
腕に抱えたライは飛んでいきそうに軽く、首に巻きついてきた細い腕は頼りなく、力を入れれば折れてしまいそうだった。
ただ、ひたすら、護ってやりたいと思った。
ヨウから護衛の話が来たときは、単純に藤壱の家から離れられるのが嬉しかった。
でも今は、明確にライを心から護ってやりたいと思う。
あの深い海のように綺麗な青い瞳から、もう悲しい涙が溢れることの無いように、ライを取り巻く憂いを全て取り除いてやりたいと思った。
窓から見えた空は青く澄み、雪はいつの間にか止んでいて、眠るライを照らすように、溢れんばかりに輝く太陽が顔を出している。
ライの悲しみが降らせた色の無い雪が、少しずつ溶け始めていた。
ーーー