色々と昔のお話(ジェイド Side)
最初に「無」があった。
「無」は「混沌」を作り出し「有」となる。
「混沌」は二番目の神として「有」を「世界」に変え「天」と「地」を作った。
「天」は「光」と「火」の女神を「地」は「闇」と「水」の男神を産み落とした。
産み落とされた神のうち「光」と「闇」はとても異なる姿であり、それゆえ互いに惹かれあった。
しかし「天」と「地」はそれをよしとせず。
「光」と「闇」が混ざり合い「混沌」の元へ戻るのを恐れたためである。
「天」と「地」は「光」と「闇」を引き離し世界を「昼」と「夜」に分け「昼」に「光」を「夜」に「闇」を閉じ込めた。「光」の姉妹神である「火」と「闇」の兄弟神である「水」はこれを哀れに思い、引き裂かれた二神の手助けをした。
「火」は自身を通せば「光」の中に「闇」の分身である影を存在させた。「水」はその内に「闇」を隠して「光」の影として存在させた。
媒介を通して互いを互いに存在させる儀式。これが婚姻の始まりとなった。
日の光をかき集めて金色の妖精が飛び込んできた。
あの時、僕はそう思ったんだ。
ヒスイがネフラを抱えて「金の桜桃亭」に入るのを見届け、すぐに踵を返す。
この店が嫌なわけでも店主が苦手なわけでもな……いや、多少思う所はあるが……。
用事があったのは本当だ。
「人と会う」ただそれだけの単純な用事。
だが、それが何かをヒスイに聞かれたくはなかった。
かといって理由を上手くごまかせる自信もない。
嘘をついたところで、あの娘にまっすぐな瞳で問われれば俺は嘘を突き通す事が出来ないだろう。
だから、ネフラが膨張した時は心底喜んだ。
別に彼をのもふもふ具合を見て、喜んだわけじゃない。確かに、素晴らしいモフみではあった。
ちなみに、こっそりと堪能した毛並みはそれはそれは素晴らしい手触りだった。日の光をふくんだ彼の綿毛は上質の羽毛布団のようにやわらかく、羊毛の様にふわふわもこもこ。
そして、もっふもふ、もっふもふなのだ。
性格は別にして、あのふわふわな、もふもふには一種の愛らしさすら感じる。
……本当に、あの性格さえなければいいのに。
それにしても日に当てただけで、あんなにふわふわ度が増すとは、また、ぜひにも堪能したいも……いや、俺は何を考えている。
今朝ですら、気を抜きすぎてもっふもふを堪能しすぎたんじゃないか。危うく俺がもふもふふわふわした動物に目がないのがバレる所だったというのに。
……気が緩みすぎている。
以前の俺ならばこんなに簡単に気が緩む事などなかったはずだ。
ともかくネフラのあの状態を戻すためにヒスイが「金の桜桃亭」に行く事は想像がついた。
元々、あそこに寄り付かない俺がいなくなったところで不自然ではないだろう。
それに、師匠の元以外ではあそこが一番安全な場所。
取り越し苦労かもしれないが、俺が側にいられない時は、出来るだけ安全な場所にいて欲しい。特に今は……。
思案にくれているうちに、ふと光を受けてキラキラと反射する湖面が目に入った。
いつのまにか待ち合わせの場所まで来ていたらしい。
冬な静寂の中で湖面は穏やかな波紋を浮かべていた。この寒さが心地よく感じる。思案にくれて火照った頭をクリアにしてくれる気がして。
しかし、初冬にしてはいささか寒すぎはしないだろうか?
そんな疑問を頭に浮かべていると「パキリッ」と不意に何かがひび割れる音が耳に響いた。
静かに、しかし、確かにーそれは湖に波紋を残したまま凍りついていく。
音と同時、感じた気配に思わず顔を上げる。
湖の対岸には佇む一つの影。
「あら、そんな怖い目で睨まないでよ。軽い悪戯をしただけなのに」
ゆったりとした黒いローブにフードを目深に被った人影。さも可笑しそうにフードから覗くその唇が動いた。
遠いはずの場所から聞こえた声は、まるで間近で話してるように耳に響く。
何が「軽い」だ。
今、使われたのは「完全なる静寂の氷」
自分の周囲を凍てつかせる強力な魔法。
通常は自身、そして周囲を残らず全て氷で覆う。
もし、この湖のみを凍らせるとなるともなれば膨大な魔力と、それをコントロールするための魔導力が必要となる。
奴は、膨大な魔力を俺を驚かせるためだけに使用したのだ。
相変わらず悪趣味な悪戯をする。
思わず眉をひそめれば、人影ーー奴は、首をすくめながら言葉を続けた。
「久しぶりに会う相手に対してつれないんじゃない?可愛くないわね。3年前は、もっと可愛げが……いや、当時も顔以外は可愛くなかったわね。むしろ、今の方が丸くなったかしら?でも、もっと幼少の頃は、多分、可愛いかったはず」
ブツブツと勝手な事を。
このまま、無視しておいて帰ってもいいだろうか。割と真剣に思うが、このままでは埒もあかない。
ため息をつくと、仕方なしにこちらから語りかけた。
「私の思い出話をしにわざわざ来たわけではないでしょう?」
要件はなんだと言葉を遮れば奴は不服そうな顔を向ける。
「生真面目なところは相変わらずね。思い出話の一つもできないなんて……まあ、いいわ。私が来た理由はただ一つ、貴方も分かっているはずよ」
奴の声は先ほどまでと違い真剣だ。体がこわばる。そう、俺は分かっていた。分かっていた。
この3年間、分かっていて何もしなかった。
あの娘を俺の事情に巻き込みたくはなかった……いや、詭弁だ。
俺は俺の秘密を知られるのをただ恐れただけだ。
「……私の答えは3年前と変わりませんよ」
動揺を気取られまいと平静に振る舞ったつもりだったが、それは態度に表れていたらしい。
今度は、奴がため息をつく。
「その様子じゃ、何も進展してないようね。こんなとこに貴方を送り込んだのは何故だと思ってるの?もう、いっそ私が動くから、やり方は問わな……」
「やめろ‼︎」
反射的に声を遮る。
苛立ちが声に漏れ出し、語気が荒くなる。頰が熱くなり、胸の奥が冷たくなる感覚が全身を支配する。
……そして、苛立ちが漏れ出していたのは、声だけではなかったらしい。
「おやめ」
今までとは打って変わって真剣な声が響く。
「ここの景色を変えるつもりならば止めないけれど、そうではないのでしょう」
振り向こうとしたが、体がピクリとも動かない。
なんとか目線だけを動かせば、氷の刃が俺の影を縫い止めてるのが見える。
そして、俺の周囲の雪も草木も地面さえもさっきまであったもの、全てがその姿を消していた。
「私の魔力……」
絞り出すような声で呟けば、背後から抱きしめられた。奴はいつのまにか対岸から移動していたらしい。……俺の背後へと。
奴の濃い藍色の髪が俺の肩口に落ちる。
「貴方が魔力を暴走させるなんてらしくないわ。3年の間に手を出されたくない大切なものでも増えたの?」
諭すようななだめるような優しい声。
もし、昔の俺ならば、この声にほだされたのだろうか。
抱きしめられていた手が体から離れ、同時に体が軽くなった。影を見やれば先程の氷の刃は溶けて俺の影から姿を消していた。
「暴走を止めていただいた事に礼は言いましょう。しかし、私は昔も今も選択変えるつもりはありません」
顔を上げ奴の方を向き直れば、視線があう。
俺の魔力の暴走を止めた時だろう。目深に被っていたはずのフードはすっかりと外れている。
闇のように深い藍色の長い髪、銀色の切れ長の目、陶器のような白い肌。美しくも妖艶な顔がそこにあった。
「頑なだこと。一体、誰に似たのかしら。お母さんは悲しいわ」
悲しいと言いながらもさほども悲しみを感じさせない、むしろ呆れたような声に苛立ちを感じた。
「貴方を母だと思った事はない」
キッパリと言い切れば、奴は少し傷ついたような顔をした。
若干の罪悪感に思わず目を逸らせば、言葉が降ってくる。
「ならば母ではなく魔王として命じよう。我が息子、ジェイドよ。次の星祭までに、呪いを解くか我が元に降るか決めよ。一切の猶予は許さぬ」
気がつけば、奴はいない。俺は、ただただ、湖を見つめていた。
風にさざめくその波間は、俺の顔を歪んで映す。
覗きこむと藍色の毛先が湖面に落ちた。銀色の目がそこに光っている。
「醜い……」
声に出した言葉をかき消すように、風が音をたてて通り過ぎていく。