二話
それから俺達は、ステーキの付け合わせに使う食材と、ついでに一週間分の食料を買って、帰路に就いた。現在時刻は午後七時半。買い出しに一時間半もかけるなんて、思いのほか熱中してしまったらしい。
このぐらいの時間ともなれば、さすがに友人に出くわすことも無いだろう。俺はサユリ姉と談笑しながら、安らかな夜の底の住宅街を、街灯の銀光に導かれて歩いて行った。
家に着くと、サユリ姉は早速夕飯の準備に取り掛かった。
ソファに座ってテレビを見ている俺の視界の端の方で、彼女は鼻歌なんか歌いながら、ニコニコ笑い、キッチンカウンターの中を忙しく動き回っている。リビングダイニングのオレンジの電灯は、すらりとした彼女のエプロン姿を優しく照らし出し、その光景と言ったらまさに、初夏の宵の薫風に揺れる、一輪の白百合のようだった。―――俺、いつの間にこんな爽やかなこと言うようになったんだ?
その後、ニ十分ほどして彼女は食事の準備を終え、俺達は二人で仲良くステーキを平らげた。味は言うまでもなく最高。肉の質は勿論のこと、サユリ姉の料理の腕前もいい。ホント、プロが調理したと言っても分からないレベルだ。
あまりにも美味しかったので、俺はつい、「何か特別なことでもしたの?」なんて具合いに訳もなく問いかけてみたのだが、そしたらサユリ姉は「シノ君への愛情をい~~~~~~っぱい込めたんだよ!」だとさ。
俺は今更になって、サユリ姉と同棲できることを嬉しく思った。
「あ、シノ君、テレビつけて!」
食後しばらくして、食器類の始末を一通り終えたサユリ姉は、思い出したようにそう言った。ソファでスマホをぼんやり眺めていた俺は、言われるがままにテレビをつける。明るくなった画面には、頭を下げたニュースキャスターが映った。どうやら、今ちょうど、夜のニュースが終わった所らしい。
と、突然画面が切り替わり、物々しい金切り声と重苦しいナレーションを先駆けにして、心霊映像が始まった。
「よかった~、ちょうど間に合った。」
サユリ姉はエプロンをたたみながらそう言って、俺にぴったり密着するように腰を下ろす。
今から何が始まるのか説明しておこう。実は、このサユリ姉との同棲には幾つかの『恒例行事』と呼ばれるものが存在する。
今から始まるのはその恒例行事の一つ、『ホラー映像鑑賞会』だ。まあ、鑑賞会なんて言っても、ただ俺とサユリ姉の二人で夏の心霊特番を見るだけなんだが・・・これが思いのほか盛り上がるのだ。
いや、正確に言えば、盛り上がっているのはサユリ姉だけで、俺は毎度、心底恐ろしい思いをしている。俺は幽霊の類が苦手なので、流れてくる映像が普通に怖いというのもあるが、はっきり言えば、そんなのはまだ可愛い方だ。俺には、それよりももっと肝を潰すことがある。それは、映像の途中でサユリ姉が急に俺に抱き着いて来ること。
なぜか知らないが、この番組を見ている間、彼女はいつもより三から五倍増しぐらいで俺に甘えたがる。映像の途中でわざとらしい(可愛らしい)悲鳴を上げては、苦しいぐらいに俺をきつく抱きしめ、下手をすれば、その勢いで俺をソファに押し倒し、顔やら胸やら太ももやらを無茶苦茶に押し付けたりしてくる。そして、そのたびに俺は心臓が張り裂けそうになる。
勿論、そんなこんなをしている間、サユリ姉はずっと盛り上がっているので、この鑑賞会は、雰囲気づくりの為にわざと薄暗くした部屋の照明に似合わず賑やかなのだ。
さて、そんな鑑賞会は、今年も、まあ盛り上がった。映像が終わった後、サユリ姉が「すっごく怖かったね。」なんて嬉しそうに笑って聞いてくるもんだから、俺は死んだような苦笑を浮かべるしか無かった。
「あ~あ、もう終わっちゃったんだな~、鑑賞会。残念、もっとシノ君とくっついてたかったのに。」
テレビを消すと、彼女は背もたれに体重を預けて仰け反り、口をとがらせながらそう言った。―――やはりそれが目的だったのか。
「終わっちまったんだからしょうがないだろ。」
「むう~、もっとシノ君に甘えたい!」
「はぁ!?」
「甘えたい甘えたい甘えたい~!」
「ああもう、なんだよ急に、煩いな~。そんなに甘えたいなら普段から勝手にもっと甘えればいだろ?」
「え?いいの?」
飛び上がるように体を起こし、目を見開いて嬉しそうに笑うサユリ姉を見て、俺は自分の言ったことの重大さを初めて痛感させられた。
俺、今すごくヤバいこと言わなかったか?
サユリ姉に普段からあのテンションで甘えられたら、俺は間違いなく心臓発作を起こして死ぬ。それなのに俺は、ついうっかり、墓穴を掘ってしまった。
「あ、いや、その・・・今のは・・・」
「嬉しいっ!私お姉ちゃんだから、今まではシノ君に甘えるの我慢してたけど・・・もうシノ君の公認だもん、これからは思う存分、い~~っぱい甘えちゃうね!」
俺が訂正をする暇もなく、彼女は俺に抱き着いて頬ずりを始めた。
俺としたことがとんでもない失態を犯してしまった、鑑賞会が終わった安心感でつい気が緩んでしまったみたいだ。何とかして訂正しないと、これは本当に俺の命に関わる!
「サユリ姉、今のはホント、冗談だから!」
「えへへ~、シノ君・・・」
割と大きい声でそう言ってみたのだが、サユリ姉はなおも幸せそうに笑って頬ずりを続けているだけで、てんで心ここにあらずと言った様子だった。こうなったら、もう何を言っても無駄だ。今はどんな言葉も、彼女の鼓膜を掠めすらできないだろう。また明日、隙を見て今の言葉を訂正するしかない。
小さいため息が漏れ、肩がストンと落ちる。でも、内心は意外と平然としていた。それは、別に諦めたからじゃない。ただ単に『どうせ今日はもう寝るだけなのだから、大した問題は起きないだろう』と考えていたからだ。
だが、俺の考えは甘かった。もしかしたら、こういうぬるい考えに至ったことが、一番の失態だったかもしれない。俺は完全にサユリ姉を見くびっていたのだ。
彼女の”甘え”は、そのあとすぐ、とんでもない形で発現した。
それは午後十一時半、俺が自室のベッドで微睡んでいた時である。
「シノ君。」
薄手のタオルケットにくるまって、うつらうつらしていると、不意に扉が開き、サユリ姉のシルエットが、睡魔に濁った細い視界の中に浮かんだ。
「どうしたの?・・・」
俺はそう問いかけたが、どういうわけか彼女からは返事がない。一体どうしたのだろう?
サユリ姉は、その後もドアのところでしばらく固まっていたが、あるとき不意に動き出して、俺の枕元へと寄って来た。が、そこでも相変わらず無言のまま固まっている。
俺はいよいよ不安になって来た。彼女は時々奇怪な行動をとることがあるが、その後には必ず俺に何かとんでもないことを仕掛けてくる。今回は、一体何をするつもりなのだろうか?
「シノ君。」
再び彼女が問いかけてきた。俺は、月明かりと闇で濃紺に潤った彼女の姿をぼんやりと見上げ、「なに?」と視線で返事をする。
すると次の瞬間、何を思ったか、サユリ姉は俺の布団に潜り込んで、背中の方から抱き着くような形で、俺と一緒に寝始めたのだった。
「ちょ、ちょっとなんだよ!?」
「えへへ、ごめんねシノ君。お姉ちゃん、さっきの番組思い出して怖くなっちゃった。」
「い、いやいや、毎年一人で寝てるじゃん!」
「本当はいつも怖かったけど、甘えちゃいけないと思って我慢してたの。でも、今年は、シノ君が甘えていいって言ってくれたから、来ちゃった。ねえ、良いでしょ?一緒に寝ても。私たち姉弟だもん。」
「姉弟でも同衾はまずいから!ほら、馬鹿なこと行ってないで、さっさと部屋に戻って。」
「ヤダ。」
「ああもう、なんだよ!」
「怖いよ、シノ君・・・・・」
そういうと、サユリ姉は突然俺をギュッと抱きしめた。彼女の声色からはさっきまでの余裕が消え、恐怖ですくむ咽頭の一点で、かろうじて言葉を空気に繋ぎとめているような、そんな声になっていた。
サユリ姉、いつもは気丈にふるまってるのに、本当は意外と怖がりなんだな。やっぱり、彼女が言うように、本当はもっと俺に甘えたかったのかもしれない。
いつもと違う彼女の姿は、何だか新鮮で、小さくて、可愛かった。触れたらそこから崩れてしまいそうな彼女の脆さには、俺の男心を堪らなくくすぐる何かがあった。そして俺は、その脆い彼女が、俺に救いを求めているということが、不思議と快く感じられた。さっきまでは甘えられるのがあんなに怖かったのに、全く、自分勝手なもんだ。
でも、たぶん男なら、誰だってそういう経験があるんじゃないか?か弱い女性というのは、それだけで、愛嬌五割り増しぐらいになる。そして俺は今、その愛嬌にすっかりやり込められているのだ。
「サユリ姉・・・」
「シノ君、お姉ちゃんを一人にしないでよ・・・」
「そこまで言うなら・・・分かったよ。でも、今日だけだからね?明日からはちゃんと自分の部屋で寝てよ?」
「うん。やっぱり、シノ君はやさしいね。お姉ちゃん、シノ君のそういうところ、大好きだよ。」
「なッ?!そ、そう言うことは言わなくていいから!」
何を言いだすかと思えば、ただでさえドキドキしてるのに、これ以上心臓に負担掛けたら、俺本気で死ぬぞ。
「・・・ねえ、シノ君。」
「ん?何?」
彼女が何を言うのか気になってはいたが、わざと素っ気なく返事をした。恥ずかしながら、いわゆる照れ隠しってやつだ。
「ありがとうね、わがまま聞いてくれて。」
「え?ああ。」
「お礼に、私もシノ君のわがまま、一つ聞いてあげるね。」
なんだ、そんなことか。
「え、良いよ別に。」
「本当にいいの?お姉ちゃん、何でも聞いてあげるよ?」
「いいよいいよ。いつもいろいろしてもらってるし。」
「そうなの?せっかく一緒の布団で寝てるのに・・・こんなチャンス、滅多にないと思うんだけどなぁ~。」
「ん゛っ?!」
「お姉ちゃん、シノ君となら・・・そう言うこと、してあげてもいいよ。」
「ちょちょちょちょ、ちょっと何言ってるんだよサユリ姉!?」
「大丈夫、ちゃんとお姉ちゃんがリードしてあげるから・・・お姉ちゃんと一緒に、きもちよくなろ?」
「いやいやいや、ちょっ、えっ・・・」
「初めてがお姉ちゃんとじゃ、嫌?」
「えっ、いや、別に嫌じゃないけど・・・ダメだって!」
「どうして?」
「だって、ほらその、あれだ!近親相姦になるだろ!」
「大丈夫だよ、私たち、血は繋がってないから・・・さあ、ほら・・・・」
「ああああぁぁぁぁぁぁ・・・・」
「・・・・・・・っぷ、ふふふ。冗談冗談♪、もう、そんなに焦っちゃって、ほんと、シノ君ってば可愛いんだから。」
彼女はそう言って、俺の肩のあたりに顔をうずめた。
ああ、夜よ、早く開けてくれ・・・・