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その家の記憶

作者: 押水武

八年ぶりに、ワタシはこの町に帰ってきた。

子供時代を過ごしたこの町に。


帰ってきたというよりは、連れ戻されたという方が正しいかもしれない。

だって、本当は帰ってきたくなど無かった。

ワタシはこの町が好きじゃない。

いい思い出より悪い思い出のほうがずっと多い。

じっとりと湿った重い空気と、灰色に澱んだ空は、ワタシの胸を憂鬱で染め上げる。

本当は帰ってきたくなど、無かったのだ。


もう十分好き勝手にやっただろう。いい加減戻ってこい。こっちで結婚して子供を産め。ゴツゴツと節くれ立った拳を握りしめて父親はそう言った。

いい加減に安心させて。このままじゃ死んでも死にきれない。恥ずかしくてご近所さんにもアンタのこと話せないのよ。眉間に深い皺を刻んで母親はそう言った。


ああ。

本当は。

本当に帰ってきたくなど無かった。

駅から両親の住む家までの、細長く曲がりくねった道を歩きながらワタシは深くうなだれた。粘りけの強い汗が、ボトリボトリとアスファルト舗装の道路に垂れ落ちる。

ちょっとした風景の一つひとつが思い出を呼び起こす。幸せでなかった子供時代の思い出を。

その瞬間。呼ばれた気がした。

名前を呼ばれた気がしたのだ。

誰か、昔からよく知っている誰かに。後ろから。名前を呼ばれた気がしたのだ。

分厚いガラス越しに聞くような深くくぐもった声で。名前を呼ばれた気がしたのだ。

キョロキョロと辺りを見回す。

誰もいない。

蝉の鳴き声しか聞こえない。

長く続くブロック塀と、無人の通りしか見えない。

ワタシを呼ぶ誰かは、見あたらなかった。

ため息をつき、手の甲で額の汗をぬぐい、「ワタシは本当に疲れている」と心の中でつぶやき、それからまた歩き始める。

そしてワタシは、自分がいつの間にか覚えのない路地に迷い込んでいたことに、気づく。一体、この町にこんな通りはあっただろうか。しばらく留守にしていたとはいえ、十八年生活したこの町に果たしてこんな見たこともない、どこに続くのか見当もつかない道は、存在していたのだろうか。

とにかく戻ろう。知っている道まで引き返そう。

そう頭では考えながら、心は全く別のことを思っていた。

知らない道でもかまわない。このまま適当に進んでしまえばいいじゃないか。歩いていればいずれ知った道に出る。あんな家に最短距離で行く必要はない。辿り着くのは少しでも遅い方がいいじゃないか。

そして。体は、そのどちらにも従わず、ただその場所に立ち尽くしていた。眩暈がしそうな暑さの中で。ただ、じっと。その場に。


と。

まただ。呼ばれた。

確かに呼ばれた。


子供の声だった。

コロコロとした、女の子の、親しげな声だった。

そしてやっぱり、深く深くくぐもっていた。

その声は、青い壁の家から聞こえた。ような気がした。

目の前に建っている青い壁の家から。


しかしこんな家さっきからあっただろうか。

おかしなことだが、瞬きするわずかの間に、今まで有りもしなかった青い家が、突然目の前に現れたようにワタシには感じられた。

同時に、思い出す。

知らない道の知らない場所だが、この家だけは知っている。

ワタシはきっとこの家に入ったことがある。

誰か。そう、顔も名前も覚えていない誰か、ワタシと同じ年頃の女の子と、この家に入ったことがあったはずだ。学校帰りだったのかもしれない。

ランドセルを背負っていた記憶があるから。「ねえねえ。面白いものが見れるよ。一緒に見ようよ」と声をかけられて、フラフラと入ったのだ。

そして今。

魔が差すとはこういうことを言うのだろう。なんとなく。本当にただ、なんとなく。ちょっとした懐かしさにつられて、ワタシはその家の玄関前に立ち、ドアノブを握っていた。

見つかれば犯罪だ。それはわかっていたが、それでも躊躇いなく、そのドアを開き中に入った。玄関は暗くヒンヤリしていた。入った後で、そういえばと、鍵がかかっていなかったことに気付いた。 

鍵がかかっていないということは、もしかしたら中に家人が居るのではないか。そう思い至るのと視界の端に二人の子どもを捉えたのは、ほぼ同時だった。

明かりがついていない板張りの真っ直ぐな廊下。左に二つ襖、右にはドアが一つと引き戸が一つ。そして突き当たりから左に向かって階段が伸びている。

その階段を上がっていく、おそらくは小学生の女の子二人の姿が、チラリと見えた。

一人は笑っていた。ニコニコと。とても楽しそうに。髪の長い女の子だった。もう一人の顔は、よく見えなかった。ただ鮮やかなピンクのランドセルを背負っていることだけがはっきりとわかった。

二人ともワタシには気付いていないようで、そのまま上の階に行ってしまう。ホッと息をつき「一つ間違えば警察を呼ばれるところだよ」と心の中で苦笑した。

すぐにここを出よう。とりあえず駅の方に戻ろう。そう考えながらドアの方に向き直る。頭の中には、女の子が背負っていたランドセルの色が残像のように焼き付いていた。

ワタシが子どもの頃はあんな可愛い色のランドセルの子はいなかったな、と。もっとくすんだ赤のランドセルを、みんなが背負っていた、と。家が裕福でいつも綺麗な服を着ていた晶子ちゃんも、美人だけど意地悪だった福原さんも、クラスで一番身長が高かった大塚さんも、みんな同じ冴えない赤のランドセルだったな、と。そんな風にとりとめもなく昔のことを思い出していた。冷たい銀色のドアノブに手を伸ばしながら。

「見たいでしょ、人が死ぬところ」

耳に入ってきた言葉にぎょっとした。

子どもらしい舌足らずのしゃべり方に、まるで似つかわしくない言葉だった。先ほど階段を上っていった二人のどちらかの声のようだ。

「もうすぐその人がくるから。ここで一緒に見ようよ、死ぬところ」

「うん」

もうすぐこの場所に誰かがやってきて、その人は、死ぬ?

どういうことだろう。

もちろん何かの間違いの可能性のほうが高い。あるいはこれは彼女たちの間だけで通じる意味のない会話で、本当に誰かが死ぬ訳ではないかもしれない。

しかし万が一本当だったら。本当にこれからこの家に誰かが入ってきて、その人が死ぬのだとしたら、ソレを見過ごしていいものだろうか。まして子どもが喜んでソレを見物しようとしていることを許してしまっていいのだろうか。

迷った。このままこの場を離れてしまえばいい、とも思った。少し気になるが、それでも今のは聞こえなかったことにして。聞こえなかったふりをして。出て行ってしまえばいい。そう思いながら、迷いながら、結局ワタシは靴を脱いで家にあがりこんだ。

「お邪魔します」と言い訳のように呟きながら。

自分で自分の行動に驚いていた。ワタシは自分のことを、他者に無関心で、共感能力が低く、冷たい人間だと思っていた。だから東京でも、ここでも、誰ともうまくやれないのだ、と。だがそんなワタシでも”これから人が死ぬ”と聞けば放ってはおけないものなか。

わざとらしく大きな足音をたてて。床板を踏み抜くような勢いで歩いた。

壁に、屈み込む老婆にしか見えないような黒い染みがあった。見覚えがある。やっぱりワタシは昔この家に入ったことがあるんだ。その時見たのとまるで同じだと、思った。

エアコンの動作音は聞こえないが、不思議なことに家の中は冷え冷えとしている。

「もうすぐだよ。もうすぐ来るよ」

「すごくドキドキする。どんな風に死ぬの?」

「焼け死ぬんだよ。きっとすごい悲鳴をあげて、のたうち回りながら死ぬと思うよ」

背筋がゾッとするような会話だった。これを小さな女の子同士が話しているなんて。

階段を上る。

ギシギシと音をたてて。

どこかの部屋から時計がカチカチとなるのが聞こえてきた。

左の壁に据え付けられた手すりには薄く埃が積もっている。

ワタシは自分の息がやけに荒くなっていることに気付いた。

興奮しているのだろうか。

あるいはこの異常な事態を不気味に感じ、怖がっているのだろうか。

自分でも自分の気持ちがうまく整理できていない。

階段を上りきるとドアが二つあった。左右にそれぞれ一つずつ。右のドアは閉じており、左のドアは開いていた。

女の子達の声があんなにはっきり聞こえていたことを考えると、左のドアが開いているほうの部屋にいるのだろう。そのまま、その部屋に足を踏み入れる。

がらんとした部屋だった。フローリングの床に白い壁紙。ほとんど空の本棚が一つ。その部屋の真ん中に二人は座り込んでいた。ワタシの目をジッと見つめ、声を押し殺してクスクスと笑いあっていた。

髪の長い女の子が「ほらね」と言うと、ピンクのランドセルの子が「ほんとだ」と頷いた。

ワタシの心臓はキュっと縮み上がっていた。二人の顔を見た瞬間、何もかも思い出したからだ。

髪の長い女の子は、小さい頃のワタシを誘ってこの家に招き入れた名も知らないあの子とまるで同じ顔をしていた。

ピンクのランドセルの子は、幼い頃のワタシとひどく似かよった顔をしていた。

この二人の子どもは、これから自分たちの目の前で人間が一人死ぬのを目撃する。まるであの日の出来事を、視点を変えて再演しているみたいだ。

あの日ワタシは、こうやって二人でこの家に座り込んで、大人の女の人が自殺するのを見ていた。もっともあの時は、包丁を使っての首切りだったが。

すごいものを見てしまった。クラスの誰も見たことがないものをワタシは目撃した。興奮したワタシはそのまま走って家に帰り、自分の見たものを母に伝えた。母は血相を変えて警察に連絡したが、駆けつけた警官と母に、その家の場所を説明することがワタシにはどうしてもできなかった。

それらしい道をどれだけ辿っても、家には着かなかった。

誰も信じてくれないし、証明する方法もなかった。だからいつしか夢でも見たんだと自分を納得させて、全部忘れていた。

気が付くとさっきまで綺麗だったフローリングの床にどす黒い液体が広がっていた。直感的に、あの時あの女の人の首から出た血だ、と思った。

この家は何もかもあの時のままだ。

「隣の部屋に灯油があるんだ。きっとそれを使って死ぬんだよ」

髪の長い女の子が言った。

ランドセルの子は期待に満ちた目でワタシを見つめていた。

気が付くと部屋の中は色々な物であふれていた。最初の何もない閑散とした状態が嘘のように、今は雑然としている。

ロープ。包丁。練炭。何かの液体が入ったコップ。アイスピック。拳銃。本物だろうか。

吐き気が一気にこみ上げてきたが、昨日から何も食べていなかったため、吐瀉はできなかった。

「隣の部屋に灯油があるんだよ」

髪の長い女の子が、もう一度、ワタシの目を真っ直ぐ見ながら、ゆっくりと言った。

一体この家はなんなのだろう。ここでは何人の人間が死んだんだろう。

死にたいわけでもない人間が、何人この家とこの子どもに捕らわれて死んだんだろう。

隣の部屋には赤いポリタンクがあった。間違いなく中身は灯油だと、臭いでわかった。

それをワタシは頭から被り、近くに落ちていたライターを拾ってポケットに入れた。安っぽい緑の百円ライターだった。

死にたくなんてないんだけどな。

そう思うと自然と涙がこぼれてきた。

ここで死んだら、どうなるんだろう。

誰にも見つけてもらえないから行方不明ってことになるのだろうか。あの時の首を切った女の人も、そうだったんだろうか。

戻ると、部屋の中はさらに雑然としていた。

死体が、たくさん。

たくさん転がっている。

あの女の人も、もちろん、いた。

底の方に残っていた最後の灯油をもう一度頭上からぶちまけ、掴んでいたポリタンクを放り捨てる。そしてポケットからライターを取り出した。

死にたくなんてないんだけどな。

もう一度強く思った。

カチカチとボタンを押し込むと、点火し、燃え移る。

こんな死に方は絶対したくなかった。

化学繊維と毛髪が焼ける臭いを一瞬感じた後、痛みと区別がつかない強烈な熱さに包まれ、ワタシは声をだす。

こんな辛くて苦しい死に方をなんでワタシはしているんだろう。

そう思いながら絞り上げるように悲鳴をあげ続けた。

程なくして目が見えなくなった。

最後に見たのは、興奮に目を輝かせて死んでいくワタシを見つめるランドセルの子の顔だった。

髪の長い女の子はまるでワタシに興味がない風で、冷たい目で隣にいるランドセルの子の方を見ていた。

熱さと苦しさだけを感じてのたうちまわり、今ワタシは

「ゃあああああああああ嗚呼あアアアあああああ」

と叫びをあげ、死んでいっている。

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