焚き火を囲んで…
驚いてユージンは飛び起きた。
とたんに視界がぐるんと傾く。
「急に起きたらダメだよ、ユージンさん」
背中に添えられる手の感触、頬に掛かりそうなほどに近い息。
どれもが本物だ。
(まさか夢──?)
全ては夢だったというのか。
紅魔と化したヘレナも、ディベルトとの戦いも、ラナに突き刺さった毒矢も──。
「ラナは──お姉さんは?」
見回して目に映った地面という地面が、巨大な金槌で砕かれたかのようにひび割れていた。
その景色の一端で、ラナが焚き火に枯れた枝をポイ、ポイと放り込んでいた。
「あんた、ずいぶんとシャツを濡らすのが好きだな。今回は染みるどころかグッショリだ。あんたのシャツに湖の水が全部吸い取られてしまったんじゃないかと疑ったくらいだ」
ニコリともせずラナがフゥと吐息をくれる。
そんなわけないじゃない~、とヘレナは笑い、ラナがうるさいっ! と言って握っていた小枝をブンッと振り回した。
「なん……で──」
ユージンの頭の中で、確かに残されている記憶と、目の前の光景と、疑心と、信念とが騒々しく飛び交っていた。
自ら封印を解いてしまったヘレナは紅魔に姿を変えたはずである。
そのヘレナを守ろうとして、ラナはディベルトが振り下ろした毒矢で命を落とした。
きゃーきゃー言う悲鳴と、小枝とでやり合っている姉妹である。
が、ふいに姉のラナが小枝を振り回すのをやめた。
「──あんた、見れたのか?」
「なにを?」
わけがわからずユージンは尋ねた。
「あたしたちは見れなかった。気づいたときには霧の中に倒れていて、あんたが水溜りの中に倒れていた。月が大きくなければもしかして見失っていたのかもしれないな。おかしな場所だよ、レイクバレイというのは。霧の中で月の光が透けて見えるんだ。なにもかも予定通りではなかったが、それはそれでまあ──綺麗だったな」
うっとりと回想するラナの横顔は煤けていた。
化粧などしなくても、シュクラ姉妹の姉はそれだけで強く眩しいのだ。
「最初はあたしにもわけがわからなかったよ。自分はてっきりディベルトに殺されたのだと思っていたから。けれどヘレナが傍らにいて、しかも元気な姿で……それで悟ったんだ。もしかして願いが通じたんじゃないかって、まさかの出来事が起こったんじゃないかって。そしてそれを出来るのは、深くなんて考えなくてもあんたしかいなかった」
ユージンが気を失う前に見た白い光の筋。
あれは、そう。月虹だった。
意識が混濁していたから、そこに考えが及ばなかっただけだ。
ここが死の世界ではなく、自分が息をしているというのなら、まさにそれが事実なのだろう。
ラナはそっとヘレナを引き寄せ、妹に右手を開かせた。
ヘレナの手の平にあった紅魔の眼は消えていた。
そこには名残としての傷跡があるだけである。
「心から感謝するよ。あんたのおかげであたしたちは自由だ」
ラナがやっと微笑んでくれたので、ユージンもホッとしていた。
まだまだ目の前にあるものが不思議でたまらないが、今は疑うことよりも信じたいのだ。
「──だけどあんたなぁ」
振り向いたラナは、口を尖らせ完全な呆れ顔であった。
「なんでついでに自分の怪我も治してもらわなかったんだ。これからまた山を戻り帰らなきゃならないんだぞ? どうしたってあたしの体型じゃあんたを負んぶなんてできないし、ヘレナの体力でも無理じゃないか」
「そこまで気が回らなかったんだ、本当だよ。祈るのに必死で」
「あんたは正真正銘のおバカさんだよ、ユージン」
ラナはユージンの顔を真っ直ぐに見てくれなかった。
お姉ちゃん、と言ってヘレナが引いても突いても、口元を締めて焚き火に頬を染めたまま見てくれようとはしなかった。
*
山を下りた後、ラナとヘレナはバルトル共和国連邦へと帰っていった。
本当の自由を手に入れるためだと言っていた。
連邦政府に、ヘレナは魔から開放され危険な人物でもなんでもないことを証明するのだと。
握手をしあい、抱きしめ合って、ユージンはシュクラ姉妹とパースタウンの駅で別れた。
ユージンが山を下りてこられたのも、彼女たちのおかげであった。
ラナは川で魚を捕まえ、ヘレナは食べられる実を集めて、一心にユージンを介抱してくれたのだ。
当然の恩返しだ、とラナは言ってくれた。
どうか自由をお与え下さい。
疲れきって放ったユージンの祈りは、姉妹の祈りでもあった。
アロケイデ神は姉妹の願いに応えてくれた。
けれど、祈った以外のことも自動的に叶えてくれるようなそんな気の利いた神ではない。
まったくラナの言った通りであった。
思い返せば、願いは他にも数え切れないほどあったのに──。
カラ──……ッン
店のドアベルが鳴り、ユージンはハッと我に返った。
「いらっしゃいませ」
ドライバーを机の上に置く。
バラバラに分解したティソーンの組み立てがさっきから全然進んでいなかったことに、ユージンはようやく気がついた。
「やぁ、ジーン。商売は上手くいってるかい」
重たげな体で入ってきたのは、馴染みの富豪の男だ。
射撃祭前の混雑時に、威力ばかりで使いにくいグラムSS―66の整備を頼みに来たあの中年の客である。
「ええ……まぁ。もうすぐ父も店に戻ると思うんですが、今日は銃器会の会合に出ていて。なにを差し上げましょうか」
ユージンはすぐに商売用の笑顔を返した。
そんな自分のことも前より少しは許せるようになっていた。
あの姉妹と出会って以来、こんななにもない平凡な日々のことをいとおしく思えるようになったからかもしれない。
胸の内が波立たないのは、ある意味、静か過ぎて寂しかった。
体の温度が上がりきらない。
けれど姉妹と共に過ごしたような危険はもう真っ平である。
平穏なのに越したことはないのだ。
「狩猟用の弾が欲しくてね。ついこの間まで溶けるほど暑いと思ったら、もうこんな季節なんだ。まいるよ」
狩猟の季節のなにがこの富豪をまいらせるのかユージンにはわからなかったが、話を合わせて笑っておくことにする。
「いくつ包みますか」
「ひとまず四〇だ。近々またここへ来るよ、ジルのやつもたまにはからかってやらねばならん。そういやジーン、腕の怪我はよくなったのかね」
ドキリ、としてユージンは軽く右の上腕を押さえた。
「……はい、もうほとんどよくなりました」
「友達とキャンプに行って怪我をするとはツイてなかったな」
「本当に」
「鍛え方が足りないんじゃないのかい? おまえさんは細すぎるよ、もう少し太った方がいい。ジルを見てみろ」
「父さんのはただのビールっ腹ですよ」
富豪の男はわっはっはと笑った。
暑かった夏は過ぎ去っていったのだ。




