鎖と封印
ヘレナは答えない。
代わりにラナがユージンを見据えた。
「銃で鎖を切りやがった。もう……終わりだ」
ラナの視線が落ちる。
ヘレナがつけていた手の覆いと鎖が打ち捨てられていた。
ラナが封印だと言ったヘレナの手袋。
それが破られたのはユージンにも理解出来るが。
「終わり……って、そんな簡単に諦めるのか」
「そうだ。後は時間の問題だ」
断固としたラナの返事が暗く返ってくる。
「どうして。ここまで頑張ってそんなすぐに」
「終わりだって言ってるだろ! あたしにはこいつを抑える方法がわからないんだ!」
ラナは掴んだヘレナの右手の平をユージンの前へさらけ出した。
心臓が止まるかと思った。
それを見たとたん、ユージンはなにも言えなくなった。
眼が。
林檎ぐらいの巨大な眼が、ヘレナの右手に埋まりこんでいた。
目蓋はない。
ただテントを取り囲む殺気と、降り注ぐ矢の気配に警戒した獣のようにギョロギョロと動き回っていたのだ。
ユージンは眩暈を覚え、気が薄れそうになった。
ヘレナのイメージからは掛け離れた、とても不似合い過ぎるその眼。
「紅魔の眼だ。母体を通じて実体化した『暁の眼』――こいつを封印した呪い師はそんな風に言っていたそうだ、解放なんかしてしまえば、あとはもう……」
こうしている間にも血が滲んでいく自分の足を、ラナは傍観するだけだ。
「ラナ、外へ。山賊や新派の手先をなんとかしよう。カバナハ族のやつらもいる」
「無駄だよ、なにもかもいっぺんになくなる。悪いなユージン、やっぱりあんたをここへ連れて来たのは失敗だったようだ――きっともう、街へは帰れない」
「そんなことない。約束しただろ」
「あんたはなにもわかってない。逃げ出せば奴らに撃たれる、ここに居座り続ければ――」
言いかけたラナの傍らで、ヘレナが震え始めた。姉に押さえ込まれていた手をパチンと振り解き、長い金髪を伏せる。
「……う、……うぅ――」
苦しげに唸り出したヘレナが、手足を引きずりテントの端まで後退しようとする。
「大丈夫か、ヘレナ」
手を伸ばしかけたユージンであった、が。
「近づかない方がいい」
ラナに激しく止められてしまった。
右腕を掴まれ、ユージンは悲鳴を上げそうになった。
「でもさっ」
「この隙に傷を縛っておけ。――ああ、そんなことをしたって無駄か」
バックパックを取ろうとした手すら、ラナは引っ込めてしまう。
「『終わり』とか、『無駄』とか。君らしくないじゃないか」
「今にわかるよ。ホラ、終わりが見えるだろ」
完全に諦め調子な彼女が顔を上げる。
視線を追うと、そこにはヘレナがいた。
いつものヘレナとは似ても似つかない姿。
服が盛り上がり、背を向けてうずくまる体は倍以上に大きく見えた。
それもどんどん葡萄のように膨らみ、肌には鱗のようなものが。
白かった肌は、今や紅に染まりつつあった。
「ヘ……、ヘ……レナ――?」
間髪を容れず、ユージンはテントの逆端へと身を引いていた。
「もうあいつにあたしたちの声は聞こえてないよ。妹に罪はないのに」
それから先の出来事は、ユージンもあまり覚えていない。
刻々と巨大化するヘレナの体はテントを破り、ラナとユージンの頭上が唐突に青く開けた。
卵の殻を割るようにテントから突如出現した紅魔に、山賊や新派の手先は悲鳴を上げて立ち竦んでいた。
紅の姿はまるで、紅色をした奇怪な形の竜にも見えた。
グアアァァ――っ!
ヘレナである紅魔が咆哮する。
巨体が一歩踏み出すたびに周囲が激しく揺れ、地面には深い亀裂が入った。
ズン……ドドド――
縦横無尽に走る亀裂が地面を隆起させ陥没させる。
周辺の木は次々に倒され、湖の水はドウッと亀裂へと流れ込む。
パニックを起こした山賊たちは弓を放り出し、新派の手先はディベルトの指図にもはや耳を貸さず、紅魔へ向けて拳銃を発砲しながら亀裂の淵へと落ちていった。
ユージンの視界にラナの姿はなかった。
陥没した地面の底にいて、周囲がどうなっているのかがまるで見えない。
紅魔と化したヘレナの姿さえ、この低い位置からは確かめられなかった。
振動だけが止まずに続く。
「ラナ――っ! ヘレナ――っ!」
崩れゆく地面の轟音の中で、ユージンは声の限りに叫んだ。
やがて激しい揺れがやってきて、ユージンは土の塊を全身に浴びた。
紅魔が起こした振動が地下深くへと響き、本格的な地震を起こしたのだ。
「ラナ――っ、ラナ――っ! ヘレナ――……っ!」
傾いた地面へしがみついていたユージンの頭に、土砂の塊が転がり落ちてきた。
ユージンの視界はとたんに真っ暗闇になった。
魔というもの。
それをユージンは、もう遥か昔に滅びた存在か、神話の中に出てくる存在としか考えていなかった。
けれどラナとヘレナという名の二人の姉妹と出会って、その考えは覆された。
魔は存在する。
目を開けたとたんに、ユージンはズキズキと頭の芯に強い痛みを感じた。
とてもそのまま開けていられるような状態ではない。
ユージンはすぐにまた目蓋を強く閉じなくてはならず、痛みが引くまでじっとその場で身体を縮めていた。
体の下がゴツゴツとして痛いし、空気が妙に冷たい。寒い。
(――ここは死後の世界か?)
閉じた目蓋の裏に、いったいなにが起こってこうなったのかを思い返してみる。
銃声と鎖、張り詰めていた糸が急に切れてしまったラナの横顔、手袋、眼――。
「……ラナ、ヘレナ――」
名前を口にしたとたん、やや意識がはっきりとした。
自分はまだ死んでいない。
どうやらこれまで石ばかりの固い場所で気を失っていたらしい。
シャツやズボンの裾が濡れているのは、湖の水を吸い込んでしまったせいだろう。
二人は無事なのだろうか。
体中の関節に力を込めてのっそりと起き上がる。
東の空に真新しい光が射していた。
(夜明け……)
ならば、この空気の冷たさにも納得がいく。
ユージンはひとりここで意識がないまま夜を明かしてしまったのだ。
辺りを見渡すと、至る所に亀裂が入り、地面が陥没したり隆起したりしていた。
湖の水が流れ込んだところが、自分の足元だけではなく、あちらこちらで小さな川になっている。
神がかり的な力が働いて、息を飲むほど美しかったレイクバレイの景色が無残に破壊されていた。
亀裂に滑り落ちるギリギリのところにデュランダルが落ちているのが見える。
負傷した右腕を庇い、ユージンはゆっくりと近づいてそれを拾い上げた。
空がただ静かで、思わずため息が出た。
生き物の気配がしない。
鳥の鳴き声さえ聞こえてこないのだ。
不気味なほど静まり返った中で、ユージンは力の限り息を吸い込んだ。
「ラナ――っ! ヘレナ――っ!」
湖があったはずの方角へ、その声は遥かに渡って行った。
しかし、いくら待っても返事は返ってこない。
どこかで動けなくなっているのかもしれない。




