暁の眼
「母はその時、腹の中にヘレナを宿していた。『暁の眼』は触れたとたんに紅の輝きを失くし、まだ豆粒みたいなヘレナに取りついたんだ。紅魔の首はたちまち干からびて壊死したという。生まれてきたヘレナの右手には、巨大な──」
ラナの声がしなくなった。
彼女の姿は影となって、ユージンの傍らで小さく膝を抱えていた。
妹が生まれながらに背負うことになった過酷な運命に纏わる話。
それは聞かされてすぐに信じろというのが難しいほどのものである。
目蓋の裏を、ヘレナの明るい笑顔と、ラナの仏頂面が掠めていった。
ようやく軽く咳払いをし、ラナが息をつく。
「朝になったらあんたは山を下りろ。そのことを伝えに来た」
冷たい言葉で彼女は宣告した。
ユージンの頭の中に澱む火薬の臭いが、一層強くなった気がした。
「俺が立ち入るべき場所ではないと。君が自分たちのことを話してくれたのは、それを解らせるためか」
「ここは思っていた以上に危険だ、あとは妹と二人で行く」
ユージンはラナの方を向けなかった。
ラナの方も振り返った気配がない。
自分たちの事情を話せば、お節介な銃器店の店員は大人しく山を下りると思ったのだろう。
「あんたの腕には関心している。ただの銃器店の店員とは思えない、たいした腕だ。だが、あたしたちは二人とも死ぬ気でここへ来ている。失うものもなにもない。あんたには店があるし、家族もいるだろう。あの賊長、左の牙が濃碧に光を帯びていた。ひょっとすると碧魔から生まれた魔牙人かもしれない。そうであればいっそう厄介だ」
あの瞬間、魔牙人と対峙したユージンであったが、ゾクリと身震いがして立ち竦んでしまった。
そのせいか、牙のことには気づいていなかった。
「山賊の頭が碧魔から生まれた魔牙人だというなら、彼らがバルトルの山奥から逃げ出したカバナハ族と繋がっている可能性も?」
「あるかもしれない。カバナハ族が崇める魔獣は紅魔と碧魔、双頭でひとつの魔を成す。碧魔は今も奪われた紅魔と『暁の眼』を探しているのかもしれない」
そこまでの推測が働いていながら、姉妹は危険な山越えを選び、レイクバレイへ下り立つのを諦めようとしないのだ。
せっかく明かしてくれた姉妹の事情も、ユージンを突き放すための言い分でしかない。
「──なにひとつ役に立てないなら。いるだけ邪魔なんだな」
「これまでのことは感謝している。どうかわかってほしい」
ラナらしくない型通りの言葉を並べられても嬉しくはなかった。
「明るくなったら出発する。あたしのデュランダルは持って行けばいい。帰りの道中はあんたひとりだ。その腕なら死体になって転がってるなんてことはないと思うが」
「褒め言葉のつもりならもう少しマシに言ってくれないか。全然笑えない」
実際、笑う気になれなかった。
強情なラナのことだ。
考えを曲げることはないのだろう。
「あんたも少し眠ったらどうだ。見張りならあたしが代わる」
「君こそ今のうちに寝ておくべきだよ。この先へ二人で進むならばなおさらだ。どっちにしろ俺は、君の妹が眠っているテントに入るわけにもいかないんだから」
ラナは渋ったが、やがて小さく頷いた。
それから腰を上げて立ち上がると、サラミと硬パンの袋をユージンの腕の中にポンと放ち、夏虫の鳴く草わらをブーツの先で掻き分けながらテントの方へ戻っていった。
『でもやっぱり……』と、言ったことを取り消すような彼女ではなかった。
ラナは最後までラナらしく、可愛げもなく、頑固で、凛々しいままユージンの記憶に残ろうとしている。
(悔しいな。最初は苦手な客ってだけだったのに──)
火薬と金属の臭いのせいで脳が制御不能になっているから感情までが明後日の方向へ進もうとしているのだ、とユージンは思うことにした。
そうでなければ、たかだか客のひとりにこんなにも掻き乱されることなどないはずなのだ。
それから数分もたっただろうか。
テントの方から近づいて来る人影があった。
人影がすぐ傍に来るまで、ユージンは散々自分の視野に映るものを疑い続けた。
ユージンの真正面。
月の光を背に立ち止まった人影は、髪の毛が長くもないし、背が高くもない。
「ちょっと来てくれるか、ヘレナの様子がおかしいんだ」
彼女はユージンが記憶の中だけに押し留めようとしていたその声で、不吉な言葉を吐いた。
テントの中を覗き込むとすぐに、ヘレナの苦しげな息遣いに気がついた。
あれだけ控えていたはずの懐中電灯がつけられていて、光を抑えるためにヘレナの帽子が半分ほど被せられている。
「──はぁ……う……はぁ……」
瞼を閉じたまま、寝袋に包まるヘレナは額に汗を滲ませうなされているようであった。
中へ入ったラナはしきりにヘレナ、ヘレナと呼びかけるが、妹の耳には届いていないらしく一向に応じようとしない。
「熱がある、さっきまではなんともなかったのに──。足首が気になると言っていたが、すぐに寝ついたんだ」
顔を上げ、ラナはユージンに言った。
「傷を見てみた方がいいかもしれない」
ユージンの言ったことに、ラナは素直に頷く。
「手伝うよ」
「……特例だ、許す」
ユージンとラナはヘレナの寝袋を開き、彼女の左足首に巻いてあった包帯を解いた。
腫れた傷口は、真っ赤に捲れ上がっていた。
山賊らの矢が掠った程度で、手当てをして血も止まっているのに、傷口は悪化していた。
「悪い菌が入ってしまったのかもしれない。ラナ、消毒薬を──」
ラナは自分のバックパックを引っ掻き回して薬を探した。
出てきた消毒薬と脱脂綿と包帯をユージンの手に渡し、彼女はすぐにまたバッグの中を漁り始める。
「あとは湿布に風邪薬──たいして使えそうもない」
ユージンが消毒薬を浸した脱脂綿でヘレナの傷口を拭いてやっていると、ラナが投げやりにそう吐いたのが聞こえた。
交代して妹の足首に包帯を巻いてやりながらついた彼女の舌打ちが、ユージンの胸をチクリと突く。
彼女にとってヘレナは、命を掛けて守ってきた大切な存在なのだ。
「……はぁ──ハァ……水──」
「待ってろ、水だな」
ラナは来る途中で水筒に汲んだ湧き水をヘレナに飲ませた。
それから額に手をやって熱の状態を確かめ、汗を拭いてやる。
容態が落ち着くどころか、ヘレナはますます苦しげに喘いでいた。
「違っていて欲しいが、矢に毒のようなものが塗られていたのかもしれない」
ユージンは言ったが、それがラナを勇気づけることになるとは思えなかった。
「毒ならばもっと早いうちから体に回るだろう。あれからもう三時間以上は経ってる──だが」
ラナは腕時計を見る。
「もし山賊たちがカバナハ族と繋がっているのだとしたら、矢に魔獣の血が塗られていてもおかしくはない。魔獣の中には、人に有害な血を持つのもいるんだ」
下唇を強くかみ締め、ラナはひたすら妹の身を案じた。
役に立てないならいるだけ邪魔だ──ついさっき自分のことをそう言ったばかりのユージンであったが。
「薬になる草を探してくる。君はここにいてくれ」
腰を浮かし、ユージンはラナに告げた。
ラナは驚いた顔でこちらを振り返った。
「こんな暗がりで? 明かりを携えて歩き回れば、やつらに見つかるかもしれないんだぞ。必ず向こうも警戒している」
「君は妹の心配だけしてなよ。俺は銃器店の店員だけど、フォーチュンテラーの血だって流れてる」
「だからそれが信用ならないんだと──っ!」
「あの月が味方してくれる、星だって負けずに地面を照らしてくれてる。魔獣の毒血に効くかどうかわからないけど、このまま手を拱いているよりマシだろ」
ラナは息を飲みこみ、落ち着かない視線を妹へ向けたままで口を開いた。
「弾は充分残ってるんだろうな、鳴子にも気をつけろ」
「わかってる。すぐに戻るから」
ユージンはテントを離れると山を下る側へ歩き出した。
周辺で鳴子の仕掛けられていない箇所は、テントを張るときすでに確認してある。
(解毒草、解毒草……)
探しながらユージンは時折立ち止まり、周囲を、特に背後をとられないよう振り返ってはラナのデュランダルを虚空へ向けた。
星明りすら届かないような真っ暗な闇には踏み込まず、できるだけ低く屈み込んで目的の野草を探し回る。




