気配
おそらく頂上まではもうすぐのところまで三人は来ている。
上手くすれば、明日のうちに尾根を渡りきってレイクバレイを拝めるかもしれない。
ユージンも折り重なる葉の上にテントを下ろし、スポーツバッグを下ろした。
雨が降る前特有の匂いも感じられない。
途中で水筒に汲んだ湧き水は温くなっていた。
それをゴクゴクと飲み、さて、テントでも立ててやろうかとユージンが考えていると、登り斜面の先でふいにカラン……と物音が鳴った。
「なんだろう」
風に木々が軋む音とも違っている。
もっとはっきりと聞こえたのだ。
カタ……コロン……
ラナとヘレナも荷解きをしようとした手を止めて、不可解な物音に耳を澄ましていた。
「あ──鹿の親子。昼間見たコたちかな」
斜面の上方を指し、ヘレナが囁いた。
「なんだまた鹿か。……それにしてもなんの音だ」
確かめるために、ユージンは音が聞こえる方へ一歩二歩近づいた。
ラナも目尻を吊り上げ、音のした方を凝視し神経を尖らせていた。
「この音、おそらくあの鹿の親子がいる辺りに──」
ラナの視線がとたんに落ち着きをなくし、左右を振り返る。
その時だった。
カランコロンという音が樹という樹の間中を忙しなく響き渡り、音に驚いた鹿の親子は飛び上がってあっという間に姿を消した。
「鳴子だ! ヘレナ、ユージン荷物を持って隠れろ!」
ジュピトル山には街の人間すら近寄らない。
人の手が加えられているのだとすれば──思い当たる節がひとつだけあった。
山賊である。
ユージンはスポーツバッグとテントの袋を掴み上げて近くにあった樹の陰に飛び込み、幹を背にして身を隠した。
姉妹も別々の樹の幹に素早く隠れた。
(──本当に山賊が?)
息を殺し、近くの樹に張りついているラナの判断と指示を待つ。
姉はすでに拳銃を抜いており、身振りだけで妹にリボルバーに弾丸を込めるよう伝えているところだった。
それからユージンを振り返り、一度頷いただけでポイポイと何物かを投げて寄越したのだ。
慌てて受けの姿勢を取り、ユージンはそれらをキャッチする。
ユージンの手に飛び込んできたのは今朝手入れをしてやったばかりの8E型デュランダルと、最高数の弾丸が詰まったロングマガジンだ。
九ミリパラベラム弾であればマガジンに収められた弾丸は三十三発。
こんな障害物だらけの山中であれば、無駄な弾の消費を抑えるためにレバーを半自動に切り替え、連射銃としての使用は避けるべきかもしれない──そういったことが、事務的に脳裏を過ぎった。
けれど手の中にあるものは何故か遠く、現実味がなかった。
「早く差し込め」
喉を震わせない囁き声でラナが急かす。
「君のだろ、これ」
「整備後の試射だと思え」
だが、これでは実射である。
「……ああ、でも──」
「あんたに貸してやる。街の人間はこんな場所に鳴子を仕掛けたりはしないんだろ? だったら他でもない。あたしにはあんたが勧めた三点撃ちがあるんだ──まったく、あの鹿の親子のせいだ」
ラナは下唇を噛み、憎々しげに視線を方々へ走らせた。
闇は重なり合う木々の葉の間へ刻々と滑り込み、幹の根元や下草をも染め始めている。
「ヘレナ、落ち着いていけよ。あたしが教えた通りにやればなんてことはない」
「うん大丈夫。山賊なんて怖くないよ、平気」
ヘレナの声は恐怖に慄いてはいたが、姉と共にいくつもの窮地を脱してきた経験からか、なんとかして切り抜けようという意志の強さがはっきりと伝わってきた。
彼女はあの日ユージンが売ったガラティンM12のグリップを、しっかりと両手で握り締めている。
樹の幹を背にして息を吐き切り、ユージンは自覚してしまった。
こんなに身近にあった物だというのに、自分は芯の部分でどこか銃に対して逃げ腰だったのだ、と。
「誰か来る!」
ラナがヘレナとユージンに警告を放った。
彼女の声に押され、ユージンはデュランダルを握り締めた。
マガジンを取りつける動作は体が覚えていて手間取るはずもない。
試射ながら重ねてきた射撃経験も数知れないのだ。
すると鳴子が鳴り止んだ後の静まりかえった山中に、人為的な高音が響き渡った。
ピイィィィィィ──……ッ!
指笛らしき号令と共に、たちまち斜面の上方からぼっさりとした黒い影がいくつも駆け下りてくる。
彼らはお祭騒ぎさながらの勢いで木々の間を風のような身軽さでやってきた。
その全員が弓を握り、背には矢筒を背負っている。
薄闇の中、信じがたいごとに駆けながら筒の中より矢を引き抜いて弓を構え、弦を弾く動作にも躊躇いがない。
「食いもんじゃあ!」
「探せ探せえっ!」
ユージンと、ラナ、ヘレナの三人は同時にそれぞれに形の違う拳銃を構えた。
「あれじゃすぐに見つかる! 黙ってやり過ごせる数じゃない、一斉に迎え撃て!」
こちらの司令塔はラナである。
彼女は持ち場を離れ、妹が隠れる幹の元へ滑り込むようにして駆け寄ると、アンサラーを構えてスライドを引いた。
いつかユージンが勝手に思い描いた、銃を構えるラナの姿がそこにあった。
「人じゃ! 人がいるぞぅ!」
「血抜きにして竜魔様に捧げよ!」
「人間じゃ、人間じゃぁっ!」
ラナの射撃は実に無駄がなく鮮やかであった。
足場の悪い地面でもバランスを取って上体を安定させ、引金を引く。
姉の傍らで妹のヘレナも奮闘していた。
ダブルアクションのリボルバーを慎重に敵側へと撃ち込んでいく。
たとえ当たらずとも、威嚇としての効果は充分であった。
ユージンも照準を山賊に合わせてはいた。
けれどたちまち周りに三人の山賊らがやってきて、不甲斐なくも下り方向への逃げ道を阻まれてしまったのだ。
相手は動作しながら矢を射撃してくる手慣れである。
ただ、弓を使う射手である以上、一定距離からこちらへ近づいてくることがなかった。
(ジュピトル山に山賊が住んでいるという言い伝えは本当だった)
ヘレナの体力では逃げ回るのにも限度がある。
三人とも防弾ベストで上体は守られているとはいえ、それ以外の場所は矢が命中すれば簡単に貫通してしまうのだ。
──シュ……ッ
ザシュ……ッ
何本もの矢が斜面を駆け上るユージンの体のすぐ脇を通り、地面や樹の幹にズドンと突き刺さった。
(冗談じゃない、このままだとやられる)
幹を盾に数本の矢をやり過ごす。
酸欠でクラクラしかけた頭の中に、死の予感が垂れ込めていた。
なにもしなければ、予感はおそらく現実となるだろう。
再び駆け出したユージンの視界。
ど真ん中で、弓を構える山賊の姿があった。
ひやりとしたユージンの左方でも狩りに興奮した山賊たちが飛び上がり、矢を番えていた。
そのうちのひとりだけは他の者たちと出で立ちが異なっていた。
酷く痩こけた体を濃緑色のマントとフードとで覆い、それが翻った内側には布ではないなにか鈍く光る硬質な物を衣代わりに着けた、悪寒を起こさせる気味の悪い射手である。
ユージンはグリップを握り締めてスライドを引き、デュランダルを構えた。
軽量化された銃身は、男の手に構えるのは容易い。
息を吐く間もなく、真正面の相手が矢を射て来た。
ユージンは咄嗟に身を翻して樹の陰に隠れた。
ズドンッ、と矢が幹に食い込む衝撃音に幾度目かの戦慄を覚える。
ユージンは相手に照準を合わせた。
相手が動いていようが、動いていまいが自分には関係のないことぐらいわかっていた。
動体射撃はユージンが得意とする競技なのである。
(絶対に当たる)
瞬間、顔を背けユージンは引金を引いた。
ズダンッ!
強い反動に上体がぶれるのを堪え、続いて左方から来た射手らに照準を合わせ引金を引く。
異常な行為とは知りつつやはり顔を背けた。
ズダンッ
ズダンッ!
嬉々とした笑い声が悲鳴と呻き声とに代わっていく。
やっとのことで顔を上げたユージンは、半ば放心状態でその光景を眺めていた。
「親方がやられた!」
「くそぅ! 退け退けーっ!」
ざわざわと葉ずれの音に紛れ込むように、山賊たちが退散して行く。
突然の襲撃者たちが去った後で、山中はとうとう本格的な闇に包まれた。




