木漏れ日の間を
そこは、雨風に晒され、世間からも忘れ去られたかのような古い鉄の封鎖門に行く手を遮られていた。
人々から恐れられているジュピトル山であるが、近づいてみるとこれといった特徴があるわけでもなく、噂に聞くような珍奇な山とも思えない。
「あんたの車が街の人間に見つかってしまったら洒落にならないんだぞ」
道から林の中へ分け入ったところに隠して停めた小型四駆のことをラナはしきりに気にしている。
道へ出てしまえば赤い車体の断片すら見えないのだが、それでもラナは不満げな表情で何度も振り返るのだ。
「街の人はこんなところまで来やしないよ。見つかって騒ぎになる方が奇っ怪さ」
スポーツバッグを掛けていない側の肩にテントを担ぎ、ユージンは彼女を安心させた。
昨夜の雨が嘘のように、空はスッキリと心地よい好天を保っている。
葉ずれの音が耳に涼しく、確実に上がりつつある気温や鳴き始めた暑苦しい蝉の声を和らげてくれていた。
「ユージンさんの言う通りだったね。これじゃ、バスなんて通ってるはずがないよ」
姉を倣ってしっかりとミリタリーパンツ姿に衣替えしたヘレナは、重く閉ざされている封鎖門を眺めて、以前、自分たちがユージンにした見当はずれな質問のことを詫びた。
長い髪を後ろでひとつに纏め上げ、暗い紅色の外套を羽織ったヘレナの姿も、ワンピースから着替えたことでラナには及ばずとも多少は勇ましく見える。
「それでこの先はどうなってる」
ユージンのことを振り仰いだラナは、妹と揃いのキャップからふわりと金髪を覗かせていた。
衣服の内側には全員が形の違う防弾ベストを着込んでいる。
「間もなくアスファルトの道はなくなってしまう。その先はおそらく獣道以下だ。道なき道を登るしかない。地図を見る限り、休み休み登って途中でテントを張ったとしても明日中には尾根を渡って向こう側へ下りられるんじゃないかな」
エリカ嬢から聞き出した情報を元に、ユージンは伝えた。
「陽のあるうちに出来るだけ移動を。暗闇での行動は避けたい」
ラナの意見にはユージンも賛成であった。
三人は封鎖門の脇をすり抜け、山道を歩き始めた。
雨に洗われた草木の匂いが香水のように濃い。
大きく息を吸い込み、ユージンは祭の後でしばらく続いていた例の症状が随分と軽くなっていることを実感した。
道はエリカ嬢が噂に聞いた通りに、数十メートル先で跡形もなくなっていた。
「あんたの言った通りだな」
背後からラナがそう言った。
外套の袖を捲くり、ない道にも怯まずにしっかりとした歩調でユージンの後について来る。
「足元に気をつけて、だんだんと下草が深くなってるから」
雨の後で傾斜のある下地は湿っていて歩きやすいとはとても言えない。
頭上から降り注ぐ木漏れ日にはため息ものであるが、団栗や銀杏の木の間をジグザグに縫うようにして登らなくてはならなかった。
「ヘレナ、平気か?」
「うん。大丈夫」
ユージンは振り返って少しだけ立ち止まった。
道のない斜面を懸命に登ってくるヘレナと、その後ろを守りながらついてくるラナの姿が数メートル下方にあった。
やっと追いつき、ユージンはヘレナの腕を引いてやろうかと手を伸ばしかける。
が、慌てて引っ込めた。
後ろからやってきた姉が、ギッと警告の睨みをきかせていたからだ。
(わ、わかってるよ。約束だろ)
ユージンは無言で首を横に振った。
それが通じたらしく、姉は睨むのをやめて「油断も隙もない」とでも言いたげに頷いてみせる。
下心がなくても、妹に触れるのは禁止らしい。
「ねえ、ユージンさん」
姉の心配事とは無縁であるかのようにヘレナは明るく笑いかけてくる。
再び湿った落ち葉の上を登り始めていたユージンは無邪気なヘレナの表情に一瞬たじろぎ、思わず姉の反応をチラリと横目でうかがってしまっていた。
姉のラナはわざとらしくそっぽを向き、黙々と登って来ながら今さらのように無関心を装っている。
「なに?」
「月の光で架かる虹ってどんなだと思う? わたし、いろいろ想像してるんだ」
こめかみの辺りに汗を滲ませ、ヘレナはうっとりと言ってみせた。
なにを言い出すのかとユージンは身構えていたが、たわいのないそんなことであった。
「そうだな……白金色で弓みたいな形をした神秘的な橋だって子供の頃から聞かされているよ」
「白金色、そう! わたしもねそんな気がしてたの。月の光で架かるくらいだから淡くて儚くて……きっと他のどんな虹より不思議で綺麗な虹なんだろうなって。早く見たいなあ」
とうとうヘレナは両手を胸の前で組んでため息を吐いている。
「神話の中で月虹が出たのはきっと満月のあたりだろうね」
月虹と出会う瞬間に強く期待を寄せる妹へ、ユージンは予測の上での話をしてやった。
パースタウンに住んでいる者であれば、願を掛けるには必ずといっていいほど満月の前後を見計らって胸に手を当て、アロケイデ神に祈るのものである。
ユージンがまだ学校に通っていた頃、アロケイデ神は恋愛の神にも学業の神にも成り得た。
と、そんなことを考えていたら、ふと何気なく目をやった先で動いたものがあった。
ぎくりとしてユージンは慌てて目を凝らしてみたが、なんてことはない、木立の間に見え隠れしていたのは鹿の親子が草を食むなんとも微笑ましい姿であった。
ラナもヘレナも鹿の存在に気がつき、一時足を休ませるために立ち止まる。
「やはりあんたもそう思うか」
それとなく会話へ参加してきたラナであった。
「三日月の夜に射す光なんてたかがしれてるよ。神話では『湖面に月の影が映った』とあるから、湖が真っ白に凍りつく冬っていうのも考えにくい。ちょうど今は《上つ弓張》を過ぎた後だから、満月の夜に向けて日に日に月の光も強くなってきてる。時期としては悪くないんじゃないの」
「上つ弓張って?」
ヘレナが興味津々でユージンを覗き込んでいた。
いつかしら姉妹はユージン話すことに真剣に耳を傾けていた。
「半月のことさ。満月になる前の半月を上つ弓張の月って呼ぶんだ。こう、弓の弦を上にしたような格好で沈んでいくから」
ユージンはテントを担いでいない方の手で、空中に弓に見立てた月の形を大きく描いてみせた。
声に気づいたのか、次に目を向けたとき、鹿の親子の姿はもうそこにはなかった。
「詳しいんだな。その──ソラのことに」
どこか面白くなさそうな顔で、そして聞き間違えていなければどこか感心するような口調で、ラナが言った。
「俺を生んだ母親はフォーチュンテラーだったんだ。顔すら知らない母親さ」
どこにいるのかさえわからない。
実の母親はまだほんの乳飲子だったユージンを手放して姿を消した。
今生きているのか、死んでしまったのかすらわからない。
やがて血の繋がっていない綺麗な女の人が家にやってきてユージンの母親になった。
今になって思い返せば、特にそれでなくともよかったのかもしれない。
しかし、なんにせよ当時のユージンにとっては、金属臭い複雑な形状をした部品や、弾薬の臭いに囲まれる毎日の中で、ほんの好奇心から手にした天文図鑑や野草図鑑を眺めるのはひとつの息抜きのようになっていた。
だからといってユージンにその手の占いが出来るというわけではない。
役に立ったといえばその分野の単位を落としたことがないということと、薬の代わりになる野草をいくつか知っているという程度なのだ。
「占い師に呪い師──それまがいの人間になら何百人と会ったな」
ラナは湿った落ち葉を踏みしめて再び歩き出し、ヘレナを追い越し、ユージンを追い越していった。
「お姉ちゃん!」
妹の呼ぶ声にラナは振り返り、投げやりに足を止める。
「少し休みすぎた。もうじき昼だ」
そう言うと、さっさと先へ歩き始めてしまった。
「ごめんねユージンさん。せっかく話してくれて、訊いたのお姉ちゃんなのに」
困った顔で小さくなり、申し訳なさそうにヘレナは目を伏せた。
ユージンはヘレナにはもちろん、ラナにも怒ったり苛々する気にはなれなかった。
「君のお姉さんの言う通りだからね、そんな世の中だし」
昼の休憩を挟み、その後も時折足を止めて休憩を取りながら三人はジュピトル山を登り続けた。
鬱蒼と木々が茂る山中では、夕闇が垂れ込めるのが下界よりも格段に早い。
「まだ歩けるよ。わたしなら平気」
そう言って笑いかけるヘレナであったが、確実に疲労の表情を浮かべているのである。
「今日はこれまでだ。明日は下りになる。早くに出発すればいい」
ラナは妹にもバックパックを下ろさせた。




