土曜日の事情
『ジーン、心配してたのよ。なにかあったの?』
ニナは本当は怒鳴りたいのかもしれない。
ふいにユージンは思った。
優しい声の向こうに抑えた感情が、余計にニナを波立たせないだけなのかもしれない。
怒鳴ってくれたっていいのに、ニナは決してそれをしない。
そのせいか、ユージンも前々から反発心らしいものを上手く持てずにいた。
「連絡しなくてゴメン。実は──」
言い掛けた時、受話器の向こうで雑音が鳴った。
続いて油断していたユージンの鼓膜をビリッと震わせたのは、地を轟かすような怒鳴り声であった。
『ジーンかっ! まったく店の仕事を放り出した挙句に、連絡ひとつ寄越さずどこにいるんだ!』
「ゴ、ゴメン父さん。配達は済ませたんだけど、その──街で同じ学校だった奴に会ってさ、偶然。話が盛り上がっちゃってつい……」
ユージンはどうにかしてその場を取り繕おうとした。
が、その前に重要な問題を残してきたのを忘れていた。
『なるほど、それで俺のキャンプ道具を黙って持ち出したってわけだな?』
ガレージの棚からランタンや小型コンロが消えていることが、そっくり父親に気づかれてしまっていたのだ。
「や……それは、その」
ユージンはたちまちしどろもどろになる。
どうせなら先にそっちの言い訳を考えておくべきだったのだ。
『仕事をサボって旧友とキャンプとはいい度胸だ。悪いことはするもんじゃないな、予報通りの大雨だ。次からはきちんと休暇の申し出をしてから遊びに出かけるんだなジーン。家族だからって甘えるんじゃない』
「あの──うん、わかったよ」
ジルは完全に勘違いをしている。
ユージンは学生時代の友達と一緒にキャンプ場にいると思い込んでいる。
『有給にはしないぞ。何日の予定だ?』
ジルの口調が心なしか柔らかくなった。
「何日……ってすぐに帰るよ」
『ちょうどおまえに休暇をやろうと思っていたところだしな。明日には雨も上がるというし、たまには友達とキャンプもいいだろう。前もって相談してくれれば新しいバーベキューコンロだって貸してやったのに、残念だったな。ただし受け取った金はなくすなよ、もしなくしたらおまえの給料から天引きだからな。まぁ、帰る前には連絡してくれ』
ユージンがたいした言い訳も吐かないうちに、ジルは電話を切ってしまった。
(──ハァ、能天気な家族で助かった)
ツーッ、ツーッと無機質な音が続く受話器を耳に当てたまま、ユージンは深く息をついた。
やがて意識の中に再び雨音が紛れ込み、車の中に置いてきた姉妹のことを思い出して電話ボックスから飛び出した。
「用事は終わったよ、戻ろう」
運転席に乗り込み、ギアをドライブに入れてユージンは言った。
「……いいのか?」
ブランケットの中からもごもごとラナの声が聞こえてくる。
「いいって、なにが」
「あんたの『事情』ってやつだよ。今日は土曜だし、待ち合わせとか予定とかあるんじゃないのか?」
あのラナが真剣にそんなことを言い出したのが可笑しかった。
姉妹がすっぽりとブランケットに包まっているのをいいことに、ユージンは声を押し殺して笑ってしまった。
「カノジョはいないよ、俺」
「バ、バカがっ。そっちの心配をしてるんじゃ──」
「お姉ちゃん、顔が赤いよ?」
ころころとヘレナも笑い出す。
「この中で顔が見えるわけないだろーがっ」
笑い声とからかい合う声の中でユージンは車をUターンさせた。
今日、ユージンは姉ラナの中にずいぶんと新しい発見をした。
見かけによらず照れ屋だということや、曲がれないのは素直過ぎる性格から来る頑固さかもしれないということ──。
川近くまで戻り、長く伸びた薄に小型四駆を隠して三人はほの暗い車内でユージンが買ってきたパンと缶詰で夕食にした。
「今夜はカニだけだと思ってたのにね、お姉ちゃん!」
「悪かったな、釣りが下手で」
ラナはフンッと唸り、癪なのかわざわざ魚の缶詰を避けてウインナー煮を口に放り込む。
「すごい豪華!」などと言ってはしゃいで食べていたヘレナだったが、食べ終わると急に眠気が差したらしく、あっという間にうとうととシートに体を預けていた。
「待て、起きろヘレナ! 男の車で寝るなど、あたしは断じて許さないからなっ!」
ラナがキィキィ声を上げてヘレナを叩き起こそうとしても、ヘレナの瞼は言うことをきかせられる状態ではなさそうである。
「だってお姉ちゃん……雨、まだ降ってるし──ユージンさんもここで寝ていいって言ってくれてるし……甘えちゃおうよ、お姉ちゃん──」
うっとりとヘレナの目が閉じ、とうとうスースーと寝息を立て始めてしまった。
「こらっ、ヘレナ! おい寝るなっ!」
ぐいぐいと妹の肩を突いていたラナは、まるで起きる様子がないことがわかったとたん一気に消沈したらしい。
最後にはしぶしぶ諦めてため息をついていた。
「だから言ったろ? 寝かしてやりなよ、きっと疲れてるんだ」
ユージンはラジオの音を小さくしてやった。
「あんたになにがわかる」
ラナは無愛想に視線を逸らした。
それから後部座席全部を使ってヘレナを寝かせると、小柄な体を助手席へと捻じ込んできた。
「狭くて悪いね、後ろに荷物がなければシートを倒せるんだけど」
「あたしは絶対に寝ないからな。ここで見張ってる」
ヘレナにブランケットを掛け終えたラナが、シートの上にドンと構えて腕組みをする。
「なにを?」
「あんたを。それと外をだ」
「俺もしばらく寝ないよ」
寝れるわけがない。
ユージンはほんの僅かだけシートをリクライニングさせ、頭の後ろで両手を組んだ。
暗闇にしとしとと降り注ぐ雨音がいくら邪魔をしようとも、意識は完全に隣のラナに奪われている。
彼女の白いTシャツから伸びる腕がちらちらと視界に入る。
その引き締まった腕でラナは妹を守り、異国のこんな辺境の街まで辿り着いたのだろう。
射撃祭の時にヘレナと二人でなら出来た他愛のない話も、ラナと二人きりになると容易くはなかった。
雨音とラジオの音があるだけまだマシというものである。
「なぜそんなにも他人におせっかいを焼けるんだ」
意外にも先に堅苦しい沈黙を破ったのはラナであった。
「自分にもわからないよ」
「赤の他人だぞ」
「きっと偶然が重なっただけだ。祭の夜に眠れずに起きていたのも、今日が雨なのも」
なんとも言いようがなく、ユージンは曖昧なことを言って逃れた。
「ただちに直すべき不幸な癖だな。あたしにあんなことを言われて、無理な手紙まで送りつけたのに、水や食べ物を買ってきたり、寝床を提供したりする。こんなお人よし野郎はバルトルにはいない。国民性の違いか」
「君も少しは面白いこと言えるんだな」
ユージンは噴き出してしまった。
後ろの座席でヘレナが寝返りを打った気配がして、慌てて声を殺す。
「な、なぜ笑う」
「だって、そんなの国民性でもなんでもないからさ。単純に俺の性格の問題だよ」
クククと笑いを飲み込み、ユージンは今一度後部座席で寝入っているヘレナを顧みた。
「魔が宿ってるって本当なの」
外見的にも、ヘレナはごく普通の明るくて可愛らしいところのある十代の少女である。
『魔が宿る』と言葉で言うのは簡単だが、ユージンにはまだそれを実感出来ずにいた。
「ああそうだ。幼いころ呪い師がヘレナの魔を封じた。ヘレナの右手には魔を宿す者の証がある。見た者はたいてい卒倒する、もし見ればあんたも間違いなくそうなるだろう」




