客と店員
息を詰め、足音を殺して、ユージンは玄関扉を開いた細い隙間から夜気の中へと今一度身を投じた。
父親の車の陰に隠れ、金属臭いリボルバーを握り締める。
必要以上に危ないことをするつもりはない。
ただ、逃げていたのが自分が客に取ったあの不可思議な姉妹であったなら──少しは事情を訊いて、警察を呼んでやることくらいは出来るだろう。
あんな態度をされて別れた後とはいえ、それくらいの寛大さはユージンも持ち合わせている。
間もなく右方向から緊迫した複数の足音が近づき、街灯の明かりに照らし出された。
ひとりはひょろりと背が高く、長い髪を揺らす少女である。
もうひとりのやや背の小さい金髪の連れに手を引かれ、先刻、男たちが駆けて行ったのとは逆方向へ足を縺れさせながらついていく。
二人は紛れもなく暗い紅色の外套を纏っていた。
むしろ、外套を着けていたから彼女たちがあの姉妹だと自信を持って決定づけることが出来たのかもしれない。
特に背の低い姉の方は、緩やかにウエーブが掛かった金髪を肩の上に揃えていて、いかにも女らしく見えたからなおさらだ。
ユージンは引金から指を離し、彼女たちを追い回す黒い人影がいないことを車の陰から素早く確かめた。
逃げてきた姉妹は、意表をついて顔を出した青年と目が合って飛び上がり、泣き出しそうな顔と険しい顔とを慌ててフードで隠してピタリと足を止めていた。
続いて追っ手らしい者の声が、通りの角を曲がった先から近づいて来る。
本当にいったいいつどこでたちの悪い厄を拾ってしまったのか。
ユージンは小さく手招きして囁いた。
「入りな。いいから早く」
二人を引き連れて玄関の扉を閉めたとたん、妹の方は息も絶え絶えにその場へくずおれた。
姉の方もすぐに話せないほどに息を切らしていて、倒れこんだ彼女を気遣い屈み込むのが精一杯である。
「外したら? もういいよ、フードは」
ユージンは小声で囁いた。
必死に整えようとする荒い息の合間に、姉がなにかを言おうと口を開きかける。
けれど声らしい声もついには出てこなかった。
諦めた姉は、答える代わりにユージンの前でガバッと自分のフードを後ろへ跳ね除け、妹のものも外してやった。
「今、水を持ってくる」
相手を確信し、少しは優しく言ってやるつもりだったのに、ユージンはサッと扉に鍵を掛けるとため息に似た吐息も一緒に吐き出していた。
今夜はまだまだ眠れそうにない。
姉妹とユージンとの間で、客と店員との関係が大きく歪んだ瞬間であった。
この期に及んで、彼女たちはなんの弁解も出来ないだろう。
それでも言うに違いない、とユージンは戻ったキッチンで二つのグラスに水を汲みながら思った。
どんな時でも強気しか見せないあの姉ならば、余計なお世話だとか、ほっといてくれてよかったとか、いくらだって減らず口を叩くはずだ。
茶碗の中に放り込んだ眠り草のことをユージンはすっかり忘れていた。
千切った葉が乾きかけていて、時間の経過を思い知らせてくれる。
グラスを両手に持ち、用心深く居間の窓から外を覗いたが追っ手らしき姿は見えなかった。
玄関へ行くと姉妹はうな垂れてぐったりと座り込んでいた。
姉の方でさえ、妹の左手を握り締めたまま黙り込んでしまっている。
玄関へ引き入れたはいいが、尋常ではない様子の姉妹である。
「こんな時間にまた……いらっしゃい。窓から覗いたけど人影は見えないみたいだよ。どこかへ行ってしまったんじゃないかな」
ユージンは今見てきた様子を伝えた。
グラスを受け取ると、姉はまず妹に飲ませてから自分の分を手に取った。
一気に飲み干し、ユージンにグラスを返して息をつく。
ユージンは妹からも空のグラスを受け取った。
「──建物の影に潜んでいるのかもしれない。気が利くんだな、店員のくせに」
顔を伏せたままで姉が言った。
来た来た、とユージンはつい悲しくなって鼻で笑ってしまった。
こんな時でさえ期待通りの反応が返ってきたのが、切なかったのである。
「店員である前に、俺はユージン=ランハっていうひとりの人間だからね」
「つまらない答えだ。どうせここの店員はお人よしで」
「お姉ちゃん、助けてもらったんだよ。何度も親切にしてもらってるのに、そんな言い方はないよ」
水を飲んで息を吹き返した妹が姉の言葉を遮った。
姉は声を出し渋り、黙り込んだ。
プライドを前に葛藤している様がユージンの目にも透けて見えるかのようだ。
それから彼女は何事かを決心して、スッと真っ直ぐに顔を上げた。
「悪かったよ。ありがとう」
この時、ユージンは初めて彼女の顔をまともに見た。
細面の輪郭を柔らかく包み込む色の濃い金髪に、愛想の下手な陽に焼けた頬。
ようやく姉とまともに顔を突き合わせられたというのに、ユージンは上手く視点を定めることが出来ず、ちらちらと瞬きの間に目をやるのが精一杯になっていた。
今夜の星空を水に薄めたかのような瞳も、小さな鼻も、化粧気のない唇も、彼女の言葉遣いや態度から得られるイメージとはかなりかけ離れていて、凛とした明るい魅力を漂わせていたからだ。
「い、いや。役に立てたなら、それでいいんだ」
片や妹の方は凛々しさを合わせ持つ姉とは違い、少女時代の可憐さを輝くばかりに放っている。
肌の色も性格も正反対であるが、その非対称具合がまた、互いの容姿をさらに引き立てているのだ。
男のような言葉遣いで素性を隠しているのか否かはともかく、外套をつけているのは正解かもしれない。
この姉妹がフードもつけずに街を歩いていれば、人目を引くのは確実である。
「いつも走ってるってイメージだよ、君たちは」
この状況下での沈黙はあまりにも耐え難い。
夜の気配に紛れさせるように、ユージンはなるべく小声で言った。
「そんなこともない」
姉も先程からずっと、話す時は響きを殺している。
「二、三日前も走ってたじゃないか」
「あ、あたし覚えてる! やっぱりそうだったんだあのときの!」
妹はささやき声で叫び、鎖のついた右手で人差し指をツンツンと空中に立てた。
よく見ると、その鎖は指なしの手袋にも似た黒い革製の覆いと繋がっていて、右手の甲と手のひらをすっぽり覆っている。
その辺のどこでも売っているような手袋とはまるで違っていた。
「『あのとき』?」
姉が妹の言葉を鸚鵡返しに尋ねる。
「そうだよお姉ちゃん。通りで大きな箱を持ったお兄さんとぶつかっちゃったじゃない? あたし、今日お祭りで会ったときも、もしかしたらそうなんじゃないかなあって思ってたんだ。でも違ったら迷惑だろうから訊けなくて」
妹は華奢な肩を竦めた。裾から覗いているのはラフな感じのスカートと白いソックスの脚である。
ブーツだけは前に見たゴツゴツした男物であったが、それでも妹は充分可愛らしく見えた。
一方で、姉は相変わらずのミリタリーパンツという格好である。
姉は銃や銃弾を品定めするかのようにじっとユージンの顔を覗きこんだ後で、口を開いた。
「覚えてないな」
『斑な茶金髪』の次はなんと言われるのか、と構えていただけにユージンは思わず拍子抜けしてしまった。
妹もそんな姉に幻滅したようである。
「ええーっ、本当に覚えてないのお姉ちゃん? 信じられない」
「覚えてないもんは覚えてない。ぶつかった男のことなんていちいち知るか」
もう過ぎ去った事である上に、貰い物のクッキーが割れてしまっただけの悪気もない出来事だ。
だからそれほどユージンの腹も立たなかった。
「やっぱりわけありなんだってことだけはわかったよ。店に来たときも、射撃祭の間際なのに競技用の弾をひとつも買わない上にセラミック製の防弾ベストが欲しいだなんて、なんかあるなと思っていたんだ」
なんとか姉の顔からも目を逸らさずにいられるようになってきて、ユージンは軽く促してみた。
果たして今夜、街に銃声を轟かせたのは追って来ていた男たちなのだろうか、それとも彼女たちの方なのだろうか。
ともかく、銃を持った何者かに追われる身であるから妹用の防弾ベストを所望したようである。
「やっぱり他の銃器店にしときゃよかった」
「お姉ちゃんっ、そういう問題じゃないでしょ。あの、えっと──ユージンさんには迷惑ばっかり掛けてるんだから」
しおらしく言って、妹はしゅんと床へ視線を落とした。
姉がこういう性格だから、妹の方は年齢に似合わずしっかり者になってしまったのだろう。




