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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

異端の夜会

人違い

作者: 橘 塔子

 重い瞼を開けると、視界は薄明るい灰色で覆われていた。

 全身がだるく、背筋が凝り固まっているのが分かった。滅茶苦茶に硬いマットレスだ。おまけに肌寒い。

 ダラダラと昼過ぎまで眠った休日のような目覚めだった。たっぷりと睡眠を取ったはずなのに頭がすっきりしない。目を閉じればいくらでも眠気がやってくる。


 佐智さちはもうとっくに仕事に出かけただろう。そういえば煙草が切れてた。帰りに買って来いとメール送っとくか――俺は鈍い頭でそんなことを考えて身を捩った。

 顔の上から何かが滑り落ち、視界が開ける。のっぺりとした白い天井だった。蛍光灯が無機質な光を放っている。その瞬間、眠る前の記憶が甦り、俺は自分の置かれた状況を理解した。

 いかんいかん、寝てる場合じゃなかったぞ。


 俺はゆっくりと上半身を起こした。骨も筋肉も強張っていて、ぎしぎしと音を立てそうだ。痛みはなかったが身体の重さがハンパない。いつもの俺なら早々に諦めて再び惰眠を貪るところだが、今日ばかりはそうはいかなかった。

 時間を掛けて起き上がり、身体を捻って床に足をつける。裸足だったがひんやりした感触は伝わってこない。スリッパの類は、当然ながら用意されていなかった。


 こんな格好だとあいつ、びっくりするだろうな――俺は頭を掻いた。後頭部が妙に柔らかい。頭皮を押さえると、指先がぐずっと沈んだ。中で硬いものが砕けているような、気味の悪い触り心地だ。

 だいぶ傷んでしまっているが、まあ仕方がない。俺は腹を括って裸足で立ち上がる。体重が倍くらいになったんじゃないかと思えるほど重力を感じて、両脚が悲鳴を上げた。

 右足を踏み出したところ、足首があらぬ方向へ曲がった。俺はバランスを崩して床に倒れ込んだ。咄嗟に手をついたが、無様に頭と腹を打ちつけた。首が嫌な音を立て、胃が圧迫される。


 ちくしょう、情けない!

 俺は床にのめったまましばし逡巡する。もうこのままふて寝を決め込んでやろうかとも思った。そうすれば誰かがきっと見つけてくれて、穏便に済ませられる。しかし――。


 奥歯を食い縛って、俺は腕に力を込めた。右腕はほぼ全体が赤紫色に変色していたが、何とか支えにはなる。痛みを感じないのが幸いだった。今度は比喩ではなくぎしぎしと音を立てながら膝を折り曲げ、長い時間を掛けて俺は立ち上がった。


 ――ひとつだけ約束して、あっくん、お願い。


 珍しく甘えたようなあいつの声が耳の奥をくすぐる。

 あの女が唯一望んだ約束を、俺はたがえてしまった。ひと時の出来心で、あいつを傷つけてしまった。

 謝らなければ。自分でも驚くほど強い意志が、重たく硬い身体に力を与えていた。これまで俺には縁のなかった思い、執念という奴かもしれない。許してもらえるまで、何度でも謝らなければ。


 待ってろよ、佐智――声に出して勢いをつけたかったが、喉の奥から上がって来たのは意味をなさない唸り声だった。声帯まで凝り固まっているのか。

 俺は傷んだ右足を庇いつつドアへ向かった。その前に、真後ろを向いた首をもとの位置に戻すのは忘れなかった。





 何かに追われて逃げ回り、階段を踏み外して、私は目を覚ました。

 すぐに夢だと分かっても、動悸が治まらない。心臓の音が鼓膜の奥にまで響いて、私は胸を押さえた。

 薄暗く静かな部屋だから余計にそう思うのだろう。

 消灯時刻はとっくに過ぎていて、個室の照明は消され、廊下の常夜灯の光がドアのすりガラスごしに差し込んできているだけだった。カーテンの隙間から見える窓の外も真っ黒い空だ。


 ベッドに寝そべった私は、首を捻じ曲げて枕元の時計を見た。午前一時。寝ついてからちょうど三時間くらいか。

 喉が渇いていたが、お茶も水も冷蔵庫に入っていることを思い出す。床に置かれた小型の冷蔵庫まで、ベッドを下りてほんの数歩――今の私にはその距離さえも移動が難しい。何で枕元にペットボトルを出しておかなかったのか、私は後悔した。

 夜中に何かあれば遠慮なく起こしてよ――胸を張って言っていた付添人の姿は、見ると、傍らの折り畳みベッドから消えていた。トイレに行ったのか、ロビーで煙草でも吸っているのか、予想通り頼りにはならなかった。

 ナースコールを押そうとしてやめた。水を出してもらうために多忙な夜勤の看護師さんを呼びつけるのは気が引ける。それに仮に付添人がいたとして、叩き起こして用を頼める自信はなかった。

 私は自分の望みをはっきりと口に出すのが苦手だ。他人からは無欲な人間だと思われているかもしれない。それでいつも損ばかりする。


 私はベッドの上で溜息をついた。骨折した左脚は膝から下がギプスで固定され、身動きが取れない。左腕もひどい打撲で、湿布を包帯でぐるぐる巻きにされていた。

 目下のところいちばん不安なのは顔だ。飛び出してきたエアバッグは私の内臓を守ったが、代わりに鼻の軟骨を折ってくれた。ガーゼに覆われた鼻に触れて、私はもう一度溜息をついた。


 篤志あつしの運転するレンタカーが自損事故を起こし、同乗していた私は大怪我を負ったのだ。

 久し振りに二人で出かけたドライブの途中、紅葉の綺麗な山道のガードレールに左側面から突っ込んだ。原因は篤志の居眠り。同じくウトウトしていて彼の状態に気づけなかった私にも非はあると思う。たとえ、前日遅くまで残業をしていてほとんど寝ていなかったとしても。

 もしも自動車がガードレールを突き破って転落していたら、と考えるとゾッとした。この先数週間の入院生活と、さらに長くかかるであろうリハビリには不安しかないが、それでも命が助かってよかったと心から思える。


 もしかしたら、これは大怪我と引き換えに神様がくれた猶予期間なのかも――そんな前向きな考えすら浮かんできた。三十路を目前にしていい加減ちゃんと考えなさい、と呆れ顔で説教されている気がした。

 私はここ一番のところで決断ができない優柔不断な人間だ。長い目で見れば絶対によくないと頭では分かっていても、その時々の目先の心地よさに流されてしまう。今日何とかなっているから、明日も明後日も大丈夫と自分を騙してしまう。

 篤志との関係がまさにそうだ。


 私は上半身だけを捻って半端な寝返りを打った。病室の暖房は妙に生(ぬる)い感じがして、独特の臭いが籠っている。窓際は少し空気が冷えていて心地よかった。


 もう二年も一緒に暮らしている篤志。この二年間であいつ、何回転職をしただろう。仕事をしていた期間を合計しても三ヶ月に満たないことは確かだ。

 付き合うようになって早々に無職になったあいつが、家賃を節約するためと称して私の部屋に転がり込んできて、なし崩し的に同棲が始まった。再就職したら二人でもっと広い所に引っ越そうなんて言っていたけれど、未だに2Kのアパートから動けないでいる。

 人間関係がウザい、給料が安い、残業が多い――篤志はもっともらしい理由をつけてすぐに辞めてしまう。要するに堪え性がないのだ。就職活動に支障が出るからとバイトはしない。最近ではその就活すら億劫がって、自営でウェブデザイナーをやると言い出す始末だ。

 私がそこそこの給料を貰っていることも、彼から切迫感を奪っているのかもしれない。ならばいっそ主夫になってくれればいいのだが、外で働く以上に家事は苦手だと言う。

 私は家事も仕事もこなしつつ、一銭も入れない篤志を二年も養っていた。

 誰に相談したって別れろと言われる。当然だと思う。それでも。


 ――さっちゃん愛してるよ。さっちゃんみたいないい女が、何で俺なんかと暮らしてくれてるのか不思議だよ。嫌になったらいつでも捨てていいんだからな?


 屈託なく笑う篤志を見ていると、何だかどうでもよくなった。結局は私自身が望んで彼の傍にいる。


 ――俺、甲斐性なしの情けない男だけど、約束するよ、絶対にさっちゃんを幸せにする。一生守ってみせる。


 彼は優しくて、歯の浮くようなセリフをしょっちゅう言ってくれた。キスもセックスも上手くて、毎回私を夢見心地にさせてくれる。

 根性のない男でも、私を愛していることだけは痛いほど分かっていたので、まあいいや、と私は諦めていた。世の中には稼ぎが良くても女癖が悪かったり、暴力を振るう男もいる。そんなのに比べれば篤志は遥かにマシだと自分に言い聞かせた。


 先の見えない甘い二人暮らしを緩慢に続けてきたけれど――私はこの先どうしたいの?


 三度目の溜息をついた時、背後で物音が聞こえて私は振り返った。ドアのすりガラスの向こうを人影が通り過ぎてゆく。規則的な足音は巡回の看護師だろう。


 幸い、加入していた医療保険から保険金が下りる。勤務先にも私傷病休業の給与補償制度はあって、当面の生活費に困ることはないだろう。この機会に将来についてじっくり考えよう。

 私がこのざまなのに対し、篤志のあの状況は皮肉ではあるが――。

 ようやく湧いてきた眠気に私が目を閉じた時、さっきとは別の足音が聞こえてきた。





 右足を引き摺る自分の足音は、我ながら不気味だった。ずるっ、ぺた、ずるっ、ぺた……まるで安っぽいホラー映画だ。

 不自然に体重のかかる左腿は、さっきから壊れ始めている。強張った筋や筋肉が傷つき、ぶちぶちと音を立てて切れるのが分かった。構うものか、佐智のところまで辿り着けさえすれば。

 俺は手摺に縋って、長く暗い廊下を歩き続けていた。不格好に身体を揺らしながら、ゆっくりゆっくりと。


 振り返ってみれば、俺はずっと佐智のヒモのようなものだった。

 いい年をして定職に就かず、彼女の部屋に居ついて彼女の稼ぎに頼って、身の回りのことも全部やらせて、まるで寄生虫だった。愛しているの言葉だけは日に何度も囁いたが、そしてその言葉に偽りはなかったが、そんなものクソの役にも立たないことは分かっていた。家事のひとつでも覚えて彼女の負担を減らすべきだった。

 佐智はこんなクズ男に一生懸命尽くしてくれた。残業続きだと言っていたが、週に何度かは夜のバイトをしていたと思う。彼女が疲れ切っているのを知っていて、俺は何もできなかった――いや、しなかったのだ。


 ――私もあっくんが大好きよ。


 佐智は歯の浮くような俺の言葉を正面から受け止めてくれて、いつも明るく笑った。


 ――あっくんはそのままでいいんだよ。私が好きでやっていることだから、気にしないで。


 そうかいいのか、と馬鹿な俺は本気で思った。彼女は本当に幸せそうで満足しているように見えたから、無理に暮らしを変える必要はないと自分を甘やかした。俺に嫌気が差したなら、きっと向こうから別れを告げるだろう。

 何もできないけれど絶対に佐智だけは守る、幸せにしてみせる――自信なんかないくせに粋がる俺を、佐智は優しく見詰めた。


 ――ありがとう。でも私は今凄く幸せよ。あっくんの傍にいられたらそれで満足なの。

 

 ほんとか? 俺の傍にいてくれるのか?


 ――ずっと傍にいるよ。だからね、これだけは約束して。


 佐智は珍しく甘えるように言って、俺の耳元に顔を寄せた。


 ――一生、私だけを愛して。たとえ遊びでも、他の女には触らないで。


 背筋がひやりとして、俺は身を引いた。佐智のいない昼間、何度かデリヘル嬢を呼んだのがバレたかと思ったのだ。

 彼女は微笑んでいたが、眼差しはひたすらに真摯だった。カマを掛けている気配はない。


 ――あっくんは私ひとりのものよ。裏切ったら許さないからね。


 正直、ちょっと怖かった。だが普段は見せない彼女の独占欲が伝わってきて嬉しくもある。風俗は浮気に入らないよな、と胸の内で言い訳をした。

 分かった約束する、破ったらちょん切られたっていいよ、とおどけて答えると、佐智は嬉しそうに抱きついてきて、俺たちはそのまま床の上で愛し合ったのだ。


 今になって分かる。佐智のあの言葉は、俺が思っていたような単なる甘い脅しではなかった。彼女の想いを見縊みくびった俺は、あいつに謝らなければならない。

 あいつが近くにいるのを感じる。冷え切った身体に炎が灯るほど、会いたかった。





 その足音は、明らかに看護師ではなかった。

 ずるっ、ぺた、ずるっ、ぺた、ずるっ……歪で不規則なリズムだ。外科病棟だから足を怪我した入院患者かもしれない。さっさと通り過ぎてくれないかなと考えながら、私はドアから目が離せなかった。

 しかしその足音は私のいる病室の前で止まった。ガラスに黒い影が映る。

 付添人が戻ってきたのか、それとも部屋を間違えたそそっかしい患者なのか――入口のスライドドアがゆっくりと開いた。


 廊下の常夜灯の明かりと受けて、その姿は薄暗い中でもはっきりと分かった。私はぽかんと口を開ける。

 それは見たことのない男性。人間ドックの時に着る検査着みたいなのを身に纏って、ドアに寄りかかって立っている。どこが重心か分からない、不自然に傾いだ姿勢だった。足元は裸足である。


「え、え、あの……」


 部屋間違えてますよ、と乾いた喉で言いかけて、私は異様さに気づいた。

 暗いことを差し引いても、男の肌は土の色と同じだった。生気がまったくない。そしてその表情――虚ろというのはこういう顔を言うのだろうか。眉も頬も強張って人形のように無表情なのに、口元はだらしなく緩んでいる。瞼をカッと見開いているが、両眼は白目を剥いているのかと思ったほど白濁していた。眠っている人の目を無理やり押し開いたみたいだ。

 その見えているのかどうか分からない目で、男は私を凝視している。瞬きひとつせずに。

 尋常ではなかった。


「……サ……チ……」


 やすりのようにざらついた音がした。男の喉から出た声だった。唇はほとんど動かず、喘鳴に似た音声が空気と一緒に押し出されている。


「サ……チ……アイ……タ……カタ……」


 私は迷わずナースコールのボタンを押した。

 同時に男がこちらに向かって歩き出す。ぐらぐらと揺れながら大股で。彼の右足首が真横に折れ曲がり、骨らしきものが覗いているのが見えた。

 ひゃあああ、と私は叫んだ。跳ね起きて逃げようとするが、ギプスで固定された左脚が動かない。身を仰け反らせるのが精いっぱいだ。

 枕元のインターホンから看護師の声が呼びかけてくる。


三森みもりさん? どうしましたか?」

「た、助けて! 早く来てぇ!」

「サ……チ……」


 男は瞬く間にベッドに辿り着いた。私を掴もうと伸ばされた腕は、全体に鬱血したような紫色だ。私は思わずその腕を振り払った。

 バランスを失って、男はあっさりと転んだ。ベッドのフレームにぶつかった頭が嫌な音を立てる。

 私はもう必死で、上半身と右脚を使ってベッドから下りた。男がいるのとは反対側の窓際だ。動かない左脚を床につけると激痛が背骨を貫く。


「やだもうっ……何なのこいつ……何なの!?」


 右脚だけでぴょんぴょん跳ねながら、私はドアへ向かった。変質者か強盗か知らないが、とにかくここから逃げなければ。廊下に出て叫べばきっと誰かが来てくれるはずだ。

 倒れたままもがいている男を見ないようにして、その横を擦り抜ける。次の瞬間、私の右足首を冷たいものが掴んだ。軸足を阻まれた私は前のめりに転倒した。


「サ……チ……」


 私の足首を握った男は呻いた。その身体は床で俯せになっているのに、首だけが半回転してあらぬ角度から私を見ている。

 私はめちゃくちゃに足を蹴り上げ、両腕で床を掻いて逃れようとした。しかし男の力は恐ろしく強く、ボキボキと妙な音を立てながらも緩まなかった。それどころかゆっくりと私の方へにじり寄ってくる。


 至近距離で目にする男の顔は、黄ばんだ蝋人形のようだった。痩せているわけでもないのに頬骨が目立ち、鼻の下が長く伸びている。入歯を外した老人のような口元は半開きで、赤黒い口腔内が見えた。

 生きている人間の顔ではない――私は本能的に察知した。


「サチ……ゴメ……ン……ユルシテ……サチ……」


 訳の分からない言葉を喘ぎながら、それは私の上に覆い被さってくる。冷蔵庫から出したばかりの生肉のような感触で、吐き気を催す悪臭がした。これは死体だ。死んだ人間の身体が動いているのだ。

 悲鳴を上げ続ける私の口を、男の手が塞いだ。爪は真っ黒に変色している。


「ゴメン……ゴメン……サ……チ……」


 謝ってる……? そう、気づいた時、


「あれぇ冴子さえこ? 起きてるの? ごめんなー、ちょっと夜食をさ……」


 能天気な声とともに、ずっと姿をくらましていた付添人が病室に戻ってきたのだった。


「篤志ぃ!」


 私は首を捩って男の手を跳ね除け、恋人に助けを求めた。コンビニのレジ袋を提げた篤志はぽかんとした表情で床を見下ろし、数秒固まった。そして、


「ひいいっ」


 と高い声を上げたかと思うと、その場にすとんと尻餅をついてしまった。

 ああ最低、もう駄目だ――私は失望した。

 篤志が這ったまま逃げ出すのと、廊下から慌ただしい足音が聞こえたのはほぼ同時だった。数人の看護師が部屋に駆け込んでくる。


「ああ! まただわ!」

「早く引き離して! 三森さん、大丈夫ですか?」


 訳も分からぬまま、私は彼女らの手で男の下から引っ張り出された。床にごろんと転がされた男の身体はぴくりとも動かず、ただの死体に戻っていた。





 冴子っていったか?

 俺を見てあんなにびっくりするんだから佐智のはずがないのに、悪いことをしてしまった。

 じゃあ佐智はいったいどこにいるんだろう。また探さないと……。

 悪いのは俺だ。あいつが許してくれるまで、何度でも謝らなければいけない。そうだ、俺は殺されて当然のことをした。


 あの寒い日――あいつは風邪を引いて会社を早退してきた。後で思い出せば朝から体調が悪そうだったのに、俺は全然気に留めてなかったんだ。

 郵便受けに入っていたいかがわしいチラシの番号に電話するのは四度目だった。やって来た女の子を部屋に入れて、アレやコレややっている真っ最中に、佐智は帰ってきた。

 佐智は俺たちの痴態をじっと見た後、バッグから財布を取り出して黙って女の子に金を渡した。女の子がそそくさと帰っていくと、何事もなかったようにコートを脱ぐ。

 俺はもちろん言い訳した。ほんの出来心だとか、最後までやってないから浮気じゃないだろとか、筋が通らないことばかりを並べ立てた。


「もう疲れちゃったよ、明博あきひろ


 佐智は初めて俺をそう呼んだ。発熱のせいか疲労のせいか、その顔はひどく蒼褪めていた。でも、怒っているようには見えなかった。


 謝ろうとする俺の前で、彼女は部屋の隅の石油ストーブに近づき、火を消しもせずに灯油缶を引き抜いた。給油キャップを開けて、中身をそこいら中にぶちまけるまではあっという間だった。

 鼻を突く臭いの液体でびしょ濡れになっても、俺はまだ佐智の意図が理解できなかった。びっくりした? と彼女が舌を出して笑うのを待っていた。


「明博は私ひとりのものなんだからね」


 俺が期待していたのとは別の種類の笑みを浮かべて、佐智は炬燵の上から俺の百円ライターを取り上げ、ためらいなく火を灯した。





「もう十年も前になるかしら……恋人に灯油を掛けられて火をつけられた男性がいてね、この病院へ救急搬送されてきたんですよ。男性の浮気が原因の無理心中だったったらしくて。もうひどい火傷で手の施しようがなくて、二人とも亡くなってしまったの」


 年配の看護師長は、私が落ち着いたところを見計らって話をしてくれた。

 感染症予防のために全身を消毒された私は、別の個室へ移された。何が起こったのか尋ねると、師長さんは言い辛そうに、それでも包み隠さずに打ち明けてくれた。


「後で聞いた話じゃ、その男性、同棲相手に仕事も家事もやらせて、本人は遊んで暮らしてたらしいわ。でも亡くなるまで譫言うわごとでずっと謝っててね、気の毒だった」

「ああ……その事件、私が学生の頃ですね。新聞で読んだ覚えがあります」


 師長さんはここで溜息をついた。


「その後……うちではたまにああいうことが起こるようになったんですよ。安置室からご遺体が勝手にいなくなるっていう……」

「い、遺体が?」

「だからいつもはドアを施錠するんですけど」


 いなくなるのは決まって若い男性の遺体。たいていは廊下の途中で力尽きて倒れている。徘徊しているところを夜勤の看護師と鉢合わせして大騒ぎになったためしもあった。その際に遺体が『サチ』という名を口にしていたことから、くだんの事件と関連づけられたらしいが、もちろん院内の関係者には厳しい箝口令が敷かれている。

 たまたま鍵をかけ忘れた今夜、部屋には交通事故で亡くなった男性の遺体があった。遠方に住む親族が引き取りにくるまで一晩、そこに安置される予定だった。


「病室にまで入り込んだのは今回が初めてです。三森さんには本当にご迷惑をおかけしてしまって……こちらの不注意で申し訳ありませんでした。後ほど院長からも謝罪を」


 厚かましいお願いですが口外しないでもらえると助かります、と頭を下げる師長に、私は肯いた。どうせ喋ったって信じてもらえっこないし、ネットに書き込んでよくある怪談に仕立て上げるつもりもなかった。


 あの男は『サチ』って人に謝っていた。自分を殺した恋人――自分と一緒に死んでしまった恋人。他人の身体を借りて何度も戻ってくるのは、あっちで彼女に会えなかったからか。それともあっちに渡れなかったからか。

 なぜ今夜彼が私の所へやって来たのか、分かるような気がした。

 彼はきっと私をサチさんと間違えたんだろう。私が今抱え込んでいる気持ちが、あまりにも当時の恋人と似通っていたから。

 ろくでなしの恋人を捨てられず、愛という言葉に惑わされて、相手の幸福こそが自分の存在価値だと勘違いをしている。たちの悪い共依存だ。だから、自分の掌から逸脱した彼をサチさんは許せなかったのだと思う。

 ごめん、サチ、許して――ひたすら謝り続ける男の死相を思い出すと胸が悪くなったが、少しだけ憐れに思えた。そして同時に、頭の中でモヤモヤしていた霧が晴れた。


「ひどい目に遭ったね、さっちゃん、怖かっただろ?」


 師長さんと入れ替わりに入って来た篤志は、能天気に笑っていた。自分の起こした事故で掠り傷ひとつ負わず、入院した私に付き添っていたが肝心な時に役に立たなかった男である。時に腰を抜かした際にしたたか尻を打ちつけ、別室で湿布を貼ってもらっていたのだ。

 馬鹿な男だが仕方がない、そういうところもちょっと可愛い――などと考えていただろう。これまでの私なら。


「篤志、私が退院するまでにアパートを出て行ってくれる? 別れたいの」


 私は篤志の目を真っ直ぐ見詰めて言い放った。彼の笑いが一瞬消え、それからもっと楽しそうな笑顔になった。わざとらしく手を打ちながら爆笑する。


「何その冗談。おもしれーな」

「本気よ。欲しいものは何でも持って行っていい。私が帰るまでに消えてて」

「ええ? ちょ、さっちゃん……冴子……」

「このままじゃ私、いつか篤志を殺すと思う」


 顔も知らないサチさんという女性を脳裏に浮かべながら、私は告げた。真剣さが伝わったようで、篤志は口の端をピクピクと引き攣らせていた。こういう時に彼が理路整然と言い返せないことは知っている。


「あのね、私が篤志を好きだったのは、篤志が私を好きでいてくれたから、それだけだったのよ。自分の自尊心を傷つけないために、私はあんたと離れられなかった。ようやくそのことに気づいたの」

「でも……俺は冴子を幸せに……」

「いっつも口ばっかりじゃない! 一度でもやり遂げたことある? 今のあんたはエッチだけが取り柄の根性なしだわ!」


 これまで口に出せなかった罵倒を投げつけると、彼はびくりと肩を震わせた。自分でも意地悪だとは思うけれど、物凄く気分がいい。もっと言ってやろうか、という内心の誘惑を振り払って、


「私と付き合ってる限り、あんたはずっとそのまんまよ。私ももうあんたに振り回されたくない。だから消えて。死んでから後悔したって遅いのよ」


 私は篤志から顔を背けて、窓の方へ目をやった。

 カーテンの布地を透かして朝の光が差し込んできていた。長い長い夜が終わって訪れた夜明けは、とても寒く、とても明るい。


 篤志はまだ何か喚いている。いつでも捨てていいと豪語していたくせに、憐れっぽく縋っている。すっかり興味を失った私の耳には何も届かなかった。そのうちに騒ぎを聞きつけた看護師がやってきて、彼を強制退去させるだろう。


 温い沼から這い出して、私の身体と心はようやく息を吹き返した。




 佐智はどこへいってしまったんだろう。

 俺にあんなことをしたのは、俺を愛してるからだよな? 俺が謝れば、また一緒にいてくれるんだよな? ずっと傍にいるって約束だもんな?

 またここで待つよ。俺の入れ物がやってくるのを待つ。


 おまえが許してくれるのを、いつまでも待ってるよ。




                           ―了―

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[良い点] 素人の感想で申し訳ありませんが、素直に凄いと思いました。 リアリティあるグロテスクさの表現、見習いたい限りです。短編として綺麗に纏まっていますし、展開も後味が良くて、不気味さの後に、胸の中…
[良い点] ネタバレ感想です。 視点がころころ変わっても、誰の視点なのか分かりやすかったです。あっくん、さっちゃん、なるほど。 ホラーだったら結末はゾンビにやられて終わりかなと思いましたが、まさ…
2017/03/23 22:29 退会済み
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[一言] カラスウリ様経由でお邪魔しました。 タイトルで種明かしをしていただいているおかげで、ミスリードはしませんでしたが、普通に読み物として楽しく読めました。 全然、本筋と関係ないですが、ぴょん…
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